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 それを考えると、
「俺は、経理に来てよかったのかも知れないな」
 と思った。
 それは、数字に対して、不安というものを感じることはなかったからだ。
 そういう意味で、経理部の仕事も最初は、慣れるまでは大変ではあったが、慣れてくると、
「天職ではないか?」
 と感じるようになった。
 ただ。
「何もないところから新しいものを作る」
 ということに造詣が深かった自分からすれば、
「物足りない」
 ということであったが、
「何か心の中に隙間がぽっかり空いている気がする」
 という思いがあり、それがどこからくるものなのか、すぐには思い出せなかった。
 しかし、それが、
「執筆活動」
 ということが分かると、今度は、
「どうして、そんな単純な理屈が分からなかったんだ?」
 と、経理部に来て、理屈っぽい頭になったと思っていたことから考えると、
「皮肉なことだな」
 と思うようになったのであった。
 会社に入って三年目。ちょうど、年齢的にも二十代後半、自分の中で、
「何か人生の転機になってきたのではないか?」
 と感じてきたのだった。
 そして、また執筆活動を始めた。
「これだよこれ」
 ということで、それまで忘れていた、
「時間の感覚が早くなる」
 という充実感を思いだしたのであった。
 それが、
「感覚で思い出した」
 というよりも、
「身体全体で思いだした」
 ということで、充実感が沸き起こってきたのだ。
 しかし、それでも、満足感に至るほどではなかった、
 それを考えると、
「満足感というのは、充実感の奥にあるものだ」
 ということを、いまさらながらに思いだしたのであった。
「俺が、就職した時、仕事で満足感が得られるような気がするんだけどな」
 と考えていた。
 営業というものをそれだけ甘く考えていたのかも知れないが、実はその感覚は、間違っているわけではなかった。
 大学生の頃にも何度か、
「満足感というものに、近づけた」
 と感じた時があったが、それはまるで、
「夢を見た時、それを忘れないようにしようとしている感覚が思い出された気がしたのであった」
 というのは、
「夢というのが、目が覚めるにしたがって忘れていくというものだ」
 ということだからである。
「夢というのは、夢の中でしか存在できない」
 ということも言えるが、
「夢というものは、潜在意識が見せるものだ」
 ともいえるのだ。
 ということは、
「夢と潜在意識というものは、表裏のものであり、しかも、交わることのない平行線ということで、お互いに意識はできても、一緒に感じることはできない」
 ということになる。
 そう感じた時、
「果たして、夢と現実とでは、どちらが裏で、どちらが表なのか?」
 と、
「普通の人では感じることのない」
 というようなことを感じているような気がするのであった。
 それは、やはり、自分にとっての、
「気持ちの中での分岐点」
 といえるものではないだろうか?
 その満足感を感じることができるようになったのは、経理部に異動してから、五年くらいが経ってからのことであった。
 その時は、
「満足感の正体というのが、こういうことだったなんて」
 と思ったのだが、その正体を自分では、
「小説執筆の中から生まれてくるものだ」
 と思っていた。
 だから、
「充実感の中から、満足感が生まれるのだ」
 と思っていたということである。
 しかし、実際には、そういうことではなかった。
 もちろん、
「充実感が、まったく関係のないことだ」
 というわけではないので、間違いではないが、出来上がってくる方向が、いわゆる、
「明後日の方向」
 というところから出てきたので。考え方としては、
「本当は最初からそこにあったのに、気づかなかっただけだ」
 ということになるのではないだろうか。
 つまり、
「石ころのようなもの」
 という感覚である。
 石ころというものは、
「河原などにたくさんあるが、それは、あまりにもたくさんある」
 ということで、
「一つ一つを意識することはない」
 というものだ。
 もっといえば、
「こちらからたくさんの石ころを見ても、皆同じものとして見るか、あるいは、すべてを一つとして見るか?」
 ということになるだけで、逆の味方をすると。
「石ころからみれば、自分だけを見られているような気がして、石ころ全部が恐怖に感じている」
 ということになるのではないだろうか?
 もちろん、人間はそんなことは分からない。
 ただ、石ころに命であったり、
「不思議な力が備わっている」
 として、それが、
「保護本能」
 のようなものであったとすれば、
「石ころは無意識のうちに、人間に対して、保護色のような幕を張ることで、人間の意識を錯乱させ、自分たちを守っているのではないか?」
 とも考えられる。
 だから、人間というのは、まわりに対しての保護意識だけではなく、
「自分に対しての保護意識から、自分の中の分かるべきことというものを、見ないようにしているという本能を持っているのかも知れない」
 と感じるのであった。
 だから、
「曖昧なこと」
 であったり、
「ハッキリとしないもの」
 というものに、必要以上の恐怖心を感じるのではないだろうか?
 それを考えると、
「満足感というものが、その曖昧なものであり、そこに到達するには、自分の保護意識というものを解除しないといけない」
 ということを考えたのだ。
 そう思うと、
「見え方が変わってきた」
 といえる。
 それまでは、
「執筆活動というものに、まだまだ苦痛が残っていた」
 といってもいい。
「今日は思っているだけの執筆ができるか?」
 ということで、それは毎日できているにも関わらず、
「今日からできなくなるんじゃないか?」
 という恐怖があるからで、それが、苦痛になってきているというメカニズムは、分かってきていた。
 それも、
「いまさらか?」
 と言われるかも知れないが、確かに、
「いまさら」
 といってもいいだろう。
 それだけ、
「何もないところから、一から生み出すということが難しい」
 ということであり、
「やりがいがある」
 ということであろう。
 それを思えば、
「今でも執筆を続けられている」
 ということが、
「奇跡ではないか?」
 さえ思えてくるくらいである。
 高校生の引きこもりから始めて、そろそろ30歳になるということなので、かなりの年月、ほぼ毎日のように書いているのだ。
 もちろん、会社に入ってから、1年くらいのブランクはあったが、それも、長い年月から見れば、微々たるものだと思えるほどになった。
「広がった傷口も、次第に狭まってくる」
 ということになるのであろう。
 山崎は、
「就職を、人生の転換期」
 と思っていたが、
「実際には、もっと別に転換期というものがあったのではないか?」
 と感じるようになった。
 それがいつだったのかということは今は分からない。それこそ、
「歴史が答えを出してくれる」
 というレベルではないかと思うのだった。
 歴史が答えを出してくれるというのは、昔見た映画にあったセリフであった。
 というのは、