趣味が凌駕するバランス
しかし、実際には、時々視線を上げて、店の雰囲気を感じていたのだ。
会話まで聞こえるわけではないが、逆にそれが、好奇心というものを掻き立てることで、いい雰囲気を醸し出しているということであろう。
だから、いつの間にか、想像力も豊かになっていき、ある程度までは、スラスラと書けるようになっていたのであった。
あとは、慣れてくることで、どんどん執筆量を増やすということであった。
喫茶店での執筆を大体、毎日、
「一時間くらい」
と決めていた。
そして、あとは家でも書こうと思ったのは、
「どこでも書けるようにしておきたい」
と考えたからであり、そのもう一つの理由は、
「最終的には、パソコンで書けるようにしたい」
というのがその狙いだったのだ。
何といっても、手書きでは、明らかな限界がある。
次第に手がしびれてきて、字もまともに書けなくなるだろう。
しかも、手書きに比べて、パソコン打ちでは、れっきとしたスピードに違いがある。
それを考えると、
「とにかくスピード」
と考えるようになったのだ。
実際に、その頃から、
「執筆というのは、質よりも量だ」
と思うようになったのだった。
確かに、
「いい作品を書きたい」
というのは当たり前のことであり、
「実際にその作品がいい悪い」
というものを判断できるだけの実力があるわけではないということであった。
そういえば、昔、プロ野球選手で、
「俺はスランプだ」
といっていた選手がいて、なかなか不調から抜け出せない人がいたというのだが、その時、監督がかけた一言で、その選手はスランプから脱出するきっかけをもらったというのであったが、その言葉というのが、
「スランプというのは一流選手が口にすることで、お前くらいの二流や三流の選手が感じるものではない」
ということであった、
それを聴いたその選手は、
「目からうろこ」
というものが落ちて、
「練習あるのみ」
ということで、スランプを脱出したということだ。
要するに、
「余計なことを考えず、目的を達成するためにすることというのを、謙虚な気持ちになってやっていれば、答えは出る」
ということなのだった。
その言葉を覚えていたので、
「集中さえしていれば、スピードを生かして書くことも、ダラダラ書いたとしても、その結果はあまり変わらないかも知れない」
と感じたことだ。
特に、
「ダラダラしていると、考えていることを忘れてしまう」
というところがあるだけに、
「スピードは命であり、生命線」
とまで思っていた。
だとすれば、スピードをつけても、書けるようにさえなれれば、それに越したことはなということである。
一生懸命に書いていると、小説執筆のスピードも上がってくる。それが、充実感に繋がるんだろうな」
と思った。
しかし、この充実感を感じるようになって分かってきたのは、
「スピードが速くなってくる」
というのは、
「実は、早くなったわけではなく、同じように、時間の経過も早くなってきた」
ということであった。
それだけ、
「集中している時間は、普段であれば、十分くらいだと思っているとしても、実際に時計を見れば、一時間経っていた」
ということである。
もしそれが、
「時間の無駄遣い」
ということであれば、本当に無駄なことであるが、
「充実していて、さらに、決して無駄に使われた時間でないのであれば、精神的にも、まだ余裕がある」
ということになり、決して悪いことではないといえるだろう。
小説を書くということは、
「そういう充実感と、余裕のある毎日、そして感覚を味わうことができるという素晴らしい趣味だ」
といえるのではないだろうか、
満足感
小説を書くようになってから、
「大学でも、そのほとんどを小説に費やした」
と思っていたが、大学を卒業すると、
「小説に費やした時間」
というものがそれほどでもなかったような気がした。
これは、
「充実感を味わっている時、時間の感覚が短くなる」
という理屈ではなく、本当に、
「それほどの満足している感覚があったわけではない」
と感じたからだ。
つまり、
「大学時代において、執筆は楽しい時間であり、充実を味合わせてくれる時間ではあったが、満足できるものではなかった」
ということであろう。
小説家になるということは、最初から考えていなかったのは、
「小説家になってしまうと、自分の好きなようにできなくなる」
ということを分かっていたからである。
それは、テレビドラマで、あれは、漫画家になる人の話であったが、
「出版社のいいなりになり、原稿が上がるまで、監視され、そのために、気が散ってしまったりして、作品が、生みの苦しみになってしまう」
というのを見たからだった。
「気が散る」
ということは、最初に書きたいと思ってやってみた、
「図書館の学習室」
のことを思い出すのだ。
あの時の感覚は、
「二度と味わいたくない」
と感じていたもので、それを通り越したにも関わらず、思い出すと、きつい感覚になる。それは、きっと、
「トラウマ」
というものからきているのだろう。
ということであった。
だから、
「気が散る」
ということは、執筆作業にとって、
「一番のタブーではあいか?」
と考えるようになったのであった。
「小説を書くということは、集中することが一番であり、その天敵が、気が散ることだということが分かってくると、見えてくるものがあったことから、書けるようになった」
といってもいいだろう。
ただ、書けるようにはなったのだが、
「もう一つ味わいたい」
と思っていたものに行きつくことができない。
それが、満足感というものだったのだ。
何とか就職できて、最初は、営業職をしっかり身に着けるというつもりであった。
そのために、
「しばらくは、執筆活動から遠ざかろう」
と考えていた。
そうでもしないと、
「仕事に集中できないからだ」
と思ったからだった。
しかし、結局、
「自分には向いていない」
ということから、部署が絵になった。
その時、
「できるはずもない」
ということは誰にだってある。
ということで、
「自分には、営業は向かない」
と考え。経理という部署に鞍替えということになり、最初は、
「正直、戸惑った」
ということであったが、それも最初だけだった。
「住めば都」
という言葉もあるが、そもそも、
「営業の仕事も不安でしかなかった」
のである、
何といっても、
「先が見えない」
ともいえる仕事で、
「曖昧な仕事」
と思っていた。
高校時代までのような、
「答えが一つ」
というものではなく、
「いろいろな方法で、相手とのコミュニケーションを図ることで、営業職をまっとうする」
というのが営業だと思えば、
「俺にはできない」
ということから、不安でしかないというのは当たり前のことであった。
だが、経理部は違う。
答えは決まっていて、
「それを数字で証明する」
というのが、経理の仕事だといえるのではないだろうか?
作品名:趣味が凌駕するバランス 作家名:森本晃次