趣味が凌駕するバランス
「これって、いじめをしている連中が、虐められる相手に感じることなのではないだろうか?」
ということであった。
「そうか、訳もなく嫌がっているように見えるが、実際には理由があるが、それをうまく説明できない」
ということで、
「いじめに走るかしない」
ということなのかも知れない。
確かに、
「理不尽な苛め」
を受けるのは耐えがたいが、
「俺自身が、親父に感じていることを考えると、いじめをしている連中を憎むということはできないかも知れないな」
と感じるのであった。
それは、
「自分が親父を、言葉で説明できない理由で憎んでいる」
と感じたからだ。
だから、
「引きこもれば、さすがにまずいと思って何も言わなくなるだろう」
と思っていたが、甘かった。
最初の頃は、ずっと、
「出てこい」
と、父親のパワハラが続いていた。
相手も理由が分からないだけに戸惑っているということは分かった。
「出てこい」
と言いながら、その理由は、あくまでもいい加減なものであり、こちらに通じるというわけではない。
余計に苛立ちが募っていき、
「こんなことなら、引きこもりなどしなければよかった」
と思ったが、ここまで来て辞めるわけにはいかない。
何といっても、
「苛め」
という問題があったからだ。
「こうなったら、やるしかない」
と覚悟を決めて、
「俺は、もう何かに逆らうということはしない」
と感じた、その、
「何か」
というのは、
「自分の意志」
だった。
自分の意志に逆らわないということは、それがそのまま、
「まわりへの抵抗」
ということになり、まわりが何と思おうとも、
「自分の意志に逆らっているわけではない」
ということで、悪いことだとは思っていないのであった。
それを考えると、
「俺は、間違っていない」
と考えるようになった。
その時、
「小説を書こう」
と思ったのであり、そのための
「生みの苦しみ」
というものを初めて味わっていた。
確かに、部屋が狭く、湿気を感じ、息苦しさというものを味わってはいたが、それがずっと嫌だという感覚ではなかった。
時々表に出ること。
そして、小説を書けるようになるための、紆余曲折が、意外と、
「楽しいものだ」
と感じられるようになるまでに、そんなに時間はかからなかった。
最近まで、
「親の威圧やパワハラ」
というものを、ずっと感じていたのだから、
「それにくらべれば、かなりマシだ」
と思うようになったのだった。
だから、小説を書けるようになると思えば、次第に毎日が楽しくなってきているということを感じたのだった。
小説をどうすれば書けるようになったのか?
という具体的な話としては、まず、
「場所を図書館に変えてみよう」
と思ったことだった。
図書館の学習室に行き、原稿用紙を出して、
「そのマス目に、文字を埋めていく」
という作業をするのが、小説執筆だと思って書いていたのだが、
「どうやら、そういうことではない」
と感じるようになってきた。
明らかに、
「気が散っている」
ということが自分で分かるのであった。
その時初めて、
「執筆の天敵は、気が散ることだ」
と感じた。
気が散るということは、集中できないということで、それが、
「まわりの環境によるものなのか?」
あるいは、
「執筆活動ということに対して感じることなのか?」
ということが分かっていなかったのだ。
しかし、
「図書館の学習室というところが悪い」
ということだけは分かった気がした。
何といっても、
「静かすぎる」
ということであった。
確かに、小説執筆には、音がしていたりすると、集中できないということは分かってきたのだが、静かで静粛なはずの図書館の学習室が、
「落ち着ける場所」
であり、
「集中できる場所」
ということではないということは感じるのであった。
その時に感じたのは、
「違和感のある音がする」
というものであった。
例えば、神がすれる音であったり、鉛筆やシャーペンによる、
「カリカリ」
という音。
普段であれば、気にもならない音が、
「小説を書く」
ということになると、
「雑音でしかない」
と感じさせるのであった。
となると、
「図書館ではダメだ」
ということなのかと考えていた。
そうなると次に考えることは、
「どこかのカフェであったり、ファミレスなどはどうだろう?」
と考えた。
実際に、都心部の喫茶店などに行ってやってみることにしたが、
「図書館よりはマシかな?」
と思った。
確かに、喫茶店やファミレスなどは、うるさいのは間違いない。ただ、
「図書館よりはましだ」
とは思った。
それだけ、図書館には、
「他にはない特殊な雰囲気があるのだろう」
と思ったのだ。
もちろん、カフェであったも、そのままではまったくうるさいだけで、作業がはかどるとは思えなかった。
そこで薬局で、
「耳栓」
というものを購入して、耳にはめたままで執筆にいそしむことにした。
すると、少しはできるような気がしたのだが、何かまだ違和感があった。
その違和感の正体はすぐに分かったのだが、それが、
「原稿用紙」
というものだった。
どうしても、
「縦書き」
ということと、さらに、マス目がきっちろしていることで、一文字書くのに若干の時間が掛かる」
つまりは、
「考えたことを忘れてしまう」
ということになるのだった。
そこで考えたのが、
「ノートやルーズリーフであればどうだろう?」
と思ったのだ。
しかも、原稿用紙で書いていると、まわりの人の視線が何となく気になるというものであり、
「別に気にしなければいいじゃないか?」
と言われればそれまでなのだろうが、自分では、
「許容範囲を超えている」
と思うことで、
「原稿用紙ではダメだ」
と感じたのだ。
そこで、少し小さめのノートを購入し、
「ノートを少しずつでも、手書きで埋めていく」
というのが楽しかったのだ。
ノートがどんどん埋まっていくのを感じると、それまで感じたことのなかったような充実感が味わえるようになった。
ただ、それにしても、今までであれば、
「数行書いただけで、書くことがなくなってしまった」
と感じていたはずのものが、
「どうして、こんなに話が続くようになったのだろう?」
と考えるようになった。
執筆というものが、楽しくなったから」
ということであれば、苦労もしないというものだった。
次第にそれが分かってきたのは、
「分からなかったのが、それだけ集中していたからだ」
という、
「逆の発想をしてみたからだった」
というのは、
「喫茶店やファミレスでは、無意識のうちに、まわりを観察するようになっていたからだ」
という思いからであった。
確かに喫茶店もファミレスも、
「人間観察にはもってこい」
である。
しかも、最初は、
「雑音でしかない店内の喧騒とした雰囲気を耳栓を買ってでもして遮断したのだから、視線を上げないようにするというのも、必須だったはずだ」
ということであった。
作品名:趣味が凌駕するバランス 作家名:森本晃次