「過ぎたるは及ばざるがごとし」殺人事件
それに、そんなにうるさいわけでもないので、気にするほどのことはないだろう。
ただ、山村は、最初、モーニングを食べながら、絵を描くということに充実感を抱いていたので、ここでの充実感はかなりのものだった。
特に、時間の経過というのは、徐実に感じさせるもので、
「十五分くらい経ったかな?」
と思っていると、実は、
「一時間経過していた」
ということもざらにあり、その時、初めていまさらながらに、
「充実感というのは、時間があっという間に過ぎることだ」
と感じたのだ。
すでに、60歳近くなっていたので、
「充実していると、時間があっという間だ」
ということは嫌ではなかったのだが、そのために、実際よりも時間が早く過ぎてしまうということは、
「その成果を出せる時間が、どんどん減って行く」
ということで、
「それは、自分にとってたまらないことになるのではないか?」
と考えるようになった。
だから、ある時をきっかけとして、
「時間がもったいない」
ということを、切実に感じるようになったのだ。
それを考えると、今度は、他の人の話が、かわいそうにも感じられた。
「定年になったら、何をしていいのか分からない」
というではないか。
それを聴いていて、
「かわいそうなやつだ」
と感じるのだが、だからと言って、何かを助言できるだけではない。
せめて、助言したとしても、他の人の一般的な意見と同じで、それは、今まで感じていた。
「大嫌いな、一般的な」
という言葉と同じではないかと思うと、
「俺が助言などできるわけはない」
と思うのだった。
だが、
「上から目線で話すのは、ある意味快感で、たまに、人に
「趣味でも見つければいい」
とはいうが、それも、
「親友といえる人がいない自分だからいえることだ」
ということであろう。
そのカフェに行って、絵を描いていると、マスターが気軽に声を掛けてくれた。
「絵をお描きになるんですね」
といって覗き込むと、
「いやいや、これはなかなかのものではないですか?」
と言われた。
そもそも、以前であれば、
「絵を描くというのが、それほど自分では上手だと思っていなかったので、誰にも知られないように描いていた」
のだが、最近では、それなりにうまくなったと感じたことで、
「人の評価も受けたいな」
と思うようになり、ひそかに少しずつ、露出の多いところで描くようになった。
しかし、それでも、公園や、前に見た画家の人の橋の上で描いていたような場所では、さすがに、
「恥ずかしい」
という思いからか、
「あまり人のいないカフェなどで描くというのが一番だ」
と感じるようになった。
そこで、
「今回は、ここで絵を描くということを続けよう」
と思うようになったのだが、それが正解だったといってもいいだろう。
ほめてくれたマスターに、照れ笑いを浮かべながら、
「絵というのは、描いているうちにうまくなってくるものだと言いますからね」
といかにも、絵描きという雰囲気で話した。
実はこれも計算ずくで、
「絵描きだと認識されたい」
という思いがあった。
もちろん、心から、
「絵描きだ」
とは思っていない。
ただ、
「以前橋の上にいた画家が、今の自分の立場だったらどうだろう?」
と感じるようになった。
だから、自分の中で、
「絵描きになり切る」
ということが、
「恥ずかしい」
という思いとともに、それ以上に、楽しく感じるということが自分の中で嬉しいと感じるような、不思議な感覚を味わってみたいと思うようになっていた。
実際に、数十年描いてきた。
毎日やっていたわけではないが、だんだんと、日にちを増やしていき、時間も増やしてきた。
最初は、
「絵を描くということは楽しい」
と思う反面、その裏に、
「苦痛に感じる」
というところもあったのだ。
それが、いかなる苦痛なのか?
ということを考えると、ハッキリとしない。
「楽しみの裏に、苦痛というものが潜んでいる」
と考えるようになったのはそれからで、
逆に、
「苦しみから楽しさというのが生まれるのではないか?」
と考えた時、その生まれてきた楽しさというのが、
「充実感ではないか?」
と思うようになったのだ。
「充実感」
というものと、
「満足感」
というものとでは違う。
とも思うようになってきた。
「充実感というものは、満足感に至るまでの、ポイント地点ではないか?」
と思うようになったが、よく考えると、
「どっちを感じたいのかというと、満足感よりも、充実感である」
とも考えられた。
だとすると、
「充実感が味わえたところで終わればいいのか?」
ということであった。
しかし、途中で終わるのは違う気がするのだが、
「それがなぜか?」
というと、
「満足感というのは、充実感と違い。途中で終わることのないものだ」
ということだ。
つまりは、
「充実感で終わってしまうと、次にまた同じ感覚を味わいたいとしたとしても、その感覚を忘れてしまっている」
ということであった。
「満足感までいかなければ、その充実感を覚えているわけではなく、充実感をまた思い出すには、最後まで完遂して、もう一度、充実感を求めたい」
という感覚にならないといけない。
ということは、
「普段は、充実感で終わっていると思っているが、本当は満足感を感じることで、充実感を忘れない」
ということに気づいていないということだ。
他の人は、
「満足感だろうが、充実感だろうが、そんなことは関係なく。また同じ感覚を味わいたい」
という考えを無意識のように持っているのかも知れないということだ。
これが、一種の、
「石ころのような感覚」
ということであり、充実していることから、
「充実感だけを味わいたい」
という、一つのことにだけ迫る考え方は、
「見え方を狭める」
ということであまりいい傾向ではないかも知れないだろう。
だが、そう思うことで、
「本当に自分が充実感を味わったことがあるのか?」
というくらいに感じることで、見え方が狭まるということだけが意識として残るので、
「満足感が、充実感を凌駕する」
ということで、
「満足できればそれでいい」
という考えに至るのだ。
それは、
「趣味に限ったこと」
というわけではない。
もっと満足感を得たいと思えば、これこそ、
「人間の習性」
というべきか、
「一人では寂しい」
という意識が働くからか、
「他の人と一緒にいること」
というのが、
「満足感の正体だ」
と感じるのかも知れない。
「満足感というものと、充実感」
どちらも意識してその差を考えている」
という人がいるのだろうか?
「どちらかが、夢で、どちらかが現実」
と、山村は考えるようになった。
「どちらが、夢で、どちらが現実なのか?」
ということは今の分かっていない。
それに
「いつからそのことを考えるようになったのか?」
というのも、今となっては、覚えていない」
ということである。
それは、
「すぐに、充実感というものを忘れてしまう」
作品名:「過ぎたるは及ばざるがごとし」殺人事件 作家名:森本晃次