「過ぎたるは及ばざるがごとし」殺人事件
ということで思った人がいたが、その人との結婚を、
「父親が絶対に許さない」
ということであった。
相手が悪いということではなく、
「会社に勤め始めてまだ間がないのに、何を浮かれたことを言っているのか?」
ということである。
まさに、この時代の、
「おやじ」
の典型的な考えというところであろうか。
山村と同じようなことを言われた人も結構いるだろう。
今であれば、
「考えられない」
という発想かも知れないが、あの頃というと、
「ちょうど、昭和の終わりの頃」
ということで、時代とすれば、
「そろそろバブル経済が来る」
というくらいで、今に至るまでの、一番の転換期を迎えるまだ前だったということであった。
時代としても、
「昭和から平成に変わる」
という時代であり、
「その時代が混乱の時代だった」
というのは、世間では、自分たちくらいの若い人たちを、
「新人類」
と呼び、
「やっと、昭和のカビの生えた考え方」
というものが、変わってくる転換期の一つだったといってもいいだろう。
その頃から、
「成田離婚」
などと言われるようになったり、離婚率が増えてきたのではなかっただろうか。
それに拍車をかけたのが、
「バブル崩壊」
という時代だっただろう。
バブルが崩壊したことで、それまでの、
「神話」
というものが、
「都市伝説」
ということになってしまう。
「実際に、信じられていたことが、ウソだった」
ということで、バブル崩壊時においては、
「銀行は絶対に潰れない」
という、
「銀行不敗神話」
といってもいいだろう。
時代が進んでいき、特に自然災害などで、想定以上のことが起ころと、同じように、
「神話が崩れる」
ということになるだろう。
「阪神大震災」
の時の、
「高速道路の倒壊神話」
というものであり、
「東北大震災:
の時の、
「原発安全神話」
というものであった。
もっとも、この二つは、
「最初から欠陥だった」
というものもあり、特に、原発などは、
「あれは人災だ」
ということで、十数年経った今でも、いろいろもめているではないか。
それを考えると、
「人間いつどうなるか分からない」
ということも考えられるのであった。
山村が、
「余生と呼ばれる時代を、趣味などの好きなこと、しかも、充実した何かを金が困らない程度にしていきたい」
と考えたのも、この、
「人間、いつどうなるか分からない」
ということを感じたからだ。
「充実感のない人生ほど、味気ないものはない」
と感じた。
それは、子供の頃に感じた、
「何かを作ることが俺は好きなんだ」
という思いからだった。
「それを思い出させてくれたのが、デートの時、橋の上で、絵を描いていたその画家のおかげだった」
ということである。
それからは、
「彼女は作るが、結婚はいいや」
と考えるようになった。
彼女を作るのも、少し憚るようになった。
それは、
「自分の充実した時間というのは、自分一人でしか作ることができない」
と感じたからだ。
人と関わればそれだけ、その人に気を遣ったり、相手が気を遣ってくれば、それにお返しをするということを考えないといけないと考えるからだ。
そんな、
「人のための人生」
のようなものが、果たして自分のためなのか?
と思うと、
「一人がいい」
と思うのも当たり前のことであろう。
そんな生活をするようになってから、それまでの生活が、だんだんバカバカしくなってきた。
出会い系を使っての不倫などという、
「危ない橋」
を渡っていた自分が怖くなったのだ。
何事もなかったのが、不幸中の幸いということであろうが、きっと自分の中で、
「こんなバカバカしい人生」
とどこかで感じたのだろう。
だから、
「痛い目に遭うこともなくやめることができた」
ということであろう。
今のような充実した毎日からは、
「想像もできない」
というような暮らしをしていたわけで、逆にいえば、
「あの生活があったから、今が充実している」
ともいえるだろう。
だからと言って、そんな人生を歩めばいいとは思っていない。
というのは、
「人生はどんな歩み方をしても、我に返る時がある」
ということで、その時に、
「それが今なんだ」
と感じることができるかどうかということが大切であろう。
山村はそのことに気づいたといってもいいだろう。
「絵を描くことというのが、今の自分の生きがいだ」
と思っているのだ。
もちろん、絵を描くことで生きがいを見つけたというのは間違いないが、
「他の趣味」
というものを持たないとも限らない。
それが何であるか分からないということで、
「絵を描きながら、その趣味にも入り込みうか?」
それとも、
「一つのことだけに集中することができない」
ということに気づいた場合は、
「新しい趣味を行うか、このまま絵を描くことに専念するか?」
ということで悩むかも知れない。
ただ一つ思っていることとすれば、
「どちらかを本当の趣味として、もう一つを、その気分転換に充てる」
ということはできるであろう。
せっかく、時間というものを有効に使おうと思えば、
「四六時中趣味に没頭する」
ということで、それがいくらどんなに好きなことであったとしても、
「他のことを放っておいて」
というわけにもいかないし、
「疲れる」
ということを考えると、
「休憩」
であったり、
「気分転換」
というものを行うというのは当たり前のことだといえるだろう。
それが、
「両方を合わせて、自分の生きがいだ」
といえるような時間を持ちたいと思うようになったことで、最近になって、
「他の趣味も探したいな」
と感じるようになったのだ。
一つ考えだしたのが、
「詩を書く」
ということであった。
死体発見
「詩を書く」
という趣味を見つけたのは、この公園の駐車場にタクシーを止めて、休憩するようになってからだ。
最初は知らなかったが、この公園から少し行ったところに、日本庭園のようなしゃれた喫茶店があり、少し高いが、
「モーニングセットもやっている」
ということでなじみになった。
その時間であれば、客はほとんどおらず、静かである。
そもそも、この喫茶店は、日本庭園が売りということもあり、
「客が騒ぐ」
ということはないのだった。
それだけ、静かなところで、ゆっくりできるのが、山村にはありがたかった。
だから、少しくらい人がいても、静かではあったが、この店の特徴として、
「いつの時間帯が忙しい」
ということは分からないということであった。
「ランチやディナーというのはやっていないので、他で食事を摂ってきた人が、アフターということで利用する」
というのはあるだろう。
もし、少し賑やかというのであれば、午後の時間くらいであろうか、
「有閑マダム」
という雰囲気の人たちがやってくる時間帯があるので、その時は少しうるさいかも知れない。
とはいえ、それも少しの時間で、毎日ということでもない。
作品名:「過ぎたるは及ばざるがごとし」殺人事件 作家名:森本晃次