「過ぎたるは及ばざるがごとし」殺人事件
という感覚に似ているのかどうなのか、それも分からない。
要するに、
「意識すればするほど、分からなくなる」
ということで、逆に、
「忘れてしまうという感覚が、その自分の中での発想の何かに、近づいていく」
ということではないだろうか?
それは、
「意識というものと、記憶」
というものに分類されるというものであろうか、
「意識が時間が経てば、記憶という装置に入ることになる」
ということであれば、
「意識というのが、充実感で、記憶が、満足感だ」
と考えると、
「充実感を忘れてしまう」
ということも、
「満足感の領域にまで達しなければ、充実感を覚えているということはない」
ということの繋がるのであろう。
それを考えると、
「忘れるということが決して悪いとは言えないのではないだろうか?」
といえるのだ。
「忘れることで、新たな意識が生まれる」
と考えれば、
「忘却の彼方」
というのも、実際にあり、悪いことではないだろう。
もちろん、記憶の中には、
「絶対に忘れたくない」
というものばかりではなく、中には、
「忘れ去ってしまいたい」
ということだってあるだろう。
それが、自分にとっての、
「黒歴史」
というものではないかと考えると、
「俺にとっての充実感は、忘れたくないというものであり、記憶として封印するものではなく、その時々で新しいものとして、充実感を味わいたい」
と思うのだろう。
それが、慢性化という感覚を防ぎ、
「飽きる」
という思いをなくすことから、
「一人での充実感というのは、無限につながっていくものとして、飽きのないものなのかも知れない」
と感じるのだ。
だから、
「結婚しても、すぐに飽きるくらいなら、一人でいる」
という感覚も、あながち間違いということでもないといえるのではないだろうか?
それを思うと、
「趣味が充実感を作ると考えれば、趣味とその気分転換は絶対に必要で、それが詩を作るということになるとは、思ってもいなかった」
そういう意味で、マスターが話しかけてくれたのは、
「運命だった」
といってもいいだろう。
そのカフェに立ち寄ったのは、開店間際の午前八時くらいだった。この店は、近くの公園近くにある博物館に合わせた経営なので、閉店時間が六時となる。だから、朝が早いのだった。
博物館が九時から開館となるので、それまでのモーニングセットの時間ということで、この時間から開店している。
タクシードライバーでここを利用する人も多いが、利用している人は、それぞれシフトが違うので、なかなか出会うことはない。したがって、山村が利用する時は、人がいないのが普通だったりする。
その日も、他に利用客はいなかった。
その日は、早朝五時からの勤務で、朝、数件の客を乗せたところで、ちょうど、朝食の時間となった。
朝を食べる場所は、数件確保していたのだが、それは、
「乗客によって、行く場所が違うだろうから、
「東西南北」
どっちの方向にいってもいいように、帰り際に行けるようにしていた。
それは、他のドライバーにも言えることなので、それだけに、この店で、他のドライバーに遭うことは珍しい。
自分たちにとって、それぞれ、
「隠れ家のような店」
ということで、重宝していた。
この店以外で気に入っている店もあった。
その店は、まるで、昭和レトロを思わせるお店で、
「木造建築の純喫茶」
という雰囲気を醸し出している。
カウンターに、テーブル席が数個あり、カウンターでは、髭を生やしたマスターが、サイフォンを使ってコーヒーを入れている。
ウエイトレスの女の子も、近くにある大学生のアルバイトなのか、慣れてくると、気さくに話しかけてくれる。
普段であれば、賑やかな雰囲気は苦手で、特に朝の時間は喧騒とした雰囲気は苦手だったので、その店は静かであるのが嬉しかった。
ウエイトレスが話しかけてくるくらいは、許容範囲で、特にその子の場合は、
「自分を若返らせてくれる雰囲気があるので、うれしかった」
といっていいだろう。
その日は、残念ながら、そっちの方向ではなかったので、この店になったが、最近では、「純喫茶の方がいいかな?」
という衝動があり、それはやはり、彼女となじんだということが頭の中にあるからではないだろうか?
そんな浮気心を頭に抱いていると、ふと我に返り、
「いかんにかん」
と、今日は博物館近くのカフェに来ていたことを思い出したのだった。
この店も、純喫茶に負けず劣らずの店である。
マスターは、奥で調理をしているので、表になかなか出てくることはないが、そのかわり、この店にもウエイトレスの女の子がいる。
彼女も女性大生なのかと思わせるが、その雰囲気は、純喫茶の女の子と対照的に、寡黙であった。
「ぶっきらぼうだ」
と思われるくらいであるが、よく観察していると、
「お待たせしました」
といって、頼んだものをテーブルに置く瞬間、笑顔になるのだった。
悲しいかな。皆、頼んだものに視線が及んでいるので、彼女の笑顔を見ていない。
「不器用なのか」
と最初は思っていたが、そうでもないようだ。
「笑顔をしなければいけない」
という意識はあるようで、かといって、
「それは恥ずかしい」
と思っているからなのか、無意識に、そういう感覚になるようだった。
それでも、この店に来た時、絵を描いている山村に対して、気さくな笑顔を見せるのだが、
「彼女の笑顔を知っている人は、自分を含め、ごくわずかな人なんだろうな」
と思うのだった。
それを考えると、純喫茶の女の子に対して戸は違う感覚になるのだった。
そう、この店の女の子に対しては、何か、
「くすぐったい感覚」
というものがあり、
「純喫茶の女の子との違いはどこにあるのか?」
と聞かれると、
「快感ではないか?」
というものであった。
そもそも、山村が好きなタイプの女の子は、
「寡黙なタイプ」
ということであった。
どうしても、
「昭和の人間」
という意識が強いからか、賑やかな女性を苦手とするところがある。
「純喫茶」
の女の子は、賑やかなタイプだが、それは、
「自分が若い頃なら苦手だったかもな」
というイメージであるが、今は却って、まわりにいないので、新鮮に感じるのであった。
そして、
「本当は苦手ということを理由に、好きなタイプではない」
と思い込もうとしていたのではないかと思うのだった。
年齢が、還暦を過ぎてくると、いまさらなのかも知れないが、
「年を取ったな」
と思うようになった。
「年を重ねた」
と思いたいが、まだそこまでの境地になることはなかった。
それでも、趣味として、
「絵を描く」
ということに触れてから、それまでの自分の生き方が一変したことで、
「人生に、遊びの部分が出てきた」
と感じるようになった。
その遊びというのは、
「ニュートラル」
ということで、
「余裕がある人生」
と思うようになると、やっと、
「年を重ねてきた」
と考えてもいいのではないかと思うのだった。
この店のウエイトレスは、名前を、
「新倉さくら」
という。
作品名:「過ぎたるは及ばざるがごとし」殺人事件 作家名:森本晃次