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「過ぎたるは及ばざるがごとし」殺人事件

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 どうしてわかったのかというと、名札がついていたからだ。最初は、
「新倉さん」
 と呼んでいたが、最近では、
「さくらちゃん」
 と呼ぶようにしている。
 そう呼べるようになるまで、少し時間もかかった。何よりも、
「恥ずかしい」
 という気持ちが先に来ていたからだった。
 だが、一度呼んでしまうと、それまでよそよそしかったことに、時間のもったいなさを感じるほどで、
「さくらちゃん」
 と呼ぶようになってから、さくらの表情が変わってきた気がするのだ。
 それだけ、目の前に来た時、
「ずっとその顔を見ていたい」
 という思いから、彼女に対しての新しい発見を、毎回のようにするようになった。
 この店に来るのが、最近は楽しくなり、今では、
「純喫茶に行くのと、ほぼ変わりない」
 というくらいに楽しかったのだ。
 本当なら、開店を待って入ってもいいのだが、今は気分的に余裕があるからか、八時十分くらいに入るようにしている。
 以前は、本当に開店と同時に入っていたが、それも、
「何か恥ずかしいよな」
 と今から思えば感じさせられた。
 この店には、慣れれば慣れてくるほどに、
「最初の頃が恥ずかしかった」
 と感じるという、
「特殊な雰囲気」
 というものを感じさせる。
 実際には、
「何が楽しいのか?」
 という思いがあるのか、思い出し笑いをすることがあった。
 それを見て、さくらが笑ったのだ。
「この子、笑うんだ」
 と、まさかの発見に最初はびっくりしたが、こちらも照れ笑いをすると、彼女もさらに笑顔を見せる。
 もちろん、笑わないなどというのはありえるわけはないのだが、それは、
「同年代の女の子」
 にだけするものだろうと思っていた。
「同年代でもなく、男性である自分にあんな笑顔ができるなんて」
 と思うと、学生時代を思い出した。
「俺が寡黙な子が好きだったというのは、ただ寡黙なだけではなく、その子が自分にだけ見せる笑顔を持っていて、それを見せてくれる」
 ということに望みをかけていたというのが、本音だったのではないだろうか?
 そのことに気づいていたとは思うが、今まで忘れていたのは事実で、思い出せなかった理由がどこにあるというのかを考えると、大学時代から今までの長きにわたっての月日が、本当は、まるで、
「昨日のことのように思い出させるということではないか?」
 と感じさせるのであった。
 そんな思いを抱きながらこの店にいると、二時間くらいの滞在でも、三十分くらいしかいなかったような気がする。
 それは、
「絵を描いている感覚」
 というのが、
「時間があっという間に流れる」
 と思うほどに、実際と感覚が違っているからだともいえるが、それよりも、店の雰囲気と、さくらを感じる時間を分けて考えるからではないかと思うようになってきた。
 だから、前であれば、
「二時間集中して一気に描いていた」
 ということであるが、最近では、数回休憩時間というか、
「頭をリセットさせる」
 という時間を持つようにしている。
 もちろん、絵を描いている時の感覚に、変化が起こってきたからであるが、それは、
「集中して一気に描くというのも悪くはないが、それよりも、時間の感覚を味わいたい」
 と思うからだった。
 昔であれば、
「感じる時間と実際の時間が違っていても構わない」
 と思っていたが、
「最近では、実際の時間だけ一気に年を取っているような気がする」
 ということが気になり始めたのだ。
 以前はそれでもよかったのは、
「その分、満足感と充実感があったからだ」
 と思っていたが、それも、ずっとやってくると、
「充実感はあるが、満足感が少し薄れてきた」
 ということを感じるようになり、その原因というものが、
「年を取ってきた」
 ということを意識するようになってきたからではないか?
 と感じるからだった。
 そのうちに、
「どうして絵を描くようになったのか?」
 というのを思いだしたからで、その理由が、
「人間いつどうなるか分からない」
 ということであった。
 それを思うと、
「時間の感覚にずれがあるのは、時間をもったいなく使っているからではないか?」
 と思うようになり、
「だったら、逆に時間を自分で操る」
 というくらいの気分になった。
 そうなると、
「時間を楽しめる感覚になればいい」
 と思ったことで、
「我に返る時間を持ちたい」
 と思うようになった。
 だから、
「絵を描いている時間だけが、時間の差なのだろうか?」
 と考えるようになり、
「我に返っている時、なるべく、さくらを見ていたい」
 と思うようになった。
 すると、頭の中が、大学時代を思い起こさせるようになり、何やらくすぐったい気分にさせられたのだ。
「年を取ってくると、昔のことを思い出す」
 というが、本当は、
「それは嫌だな」
 と昔から思っていた。
 というのは、
「それだけ、先が短いというのに、昔のまだまだ先があるという感覚を思いだすのが、楽しいわけはない」
 と感じたからだ。
 しかし、
「昔を思い出すような年齢に差し掛かってくると、昔を思い出しても、懐かしいとは思うが、あの頃に戻りたいとは思わない」
 と感じた。
 というのも、
「若い頃に戻って、将来の不安を絶えず感じながら生きてきた一生を、もう一度歩むには、すでに疲れた」
 と感じたからだ。
 昔の物語に、
「不老不死を得たい」
 という話があるが、それは、時代が違っているからかも知れない。
 特に戦国時代などは、
「いつ殺されるか分からない」
 というほど、戦があちこちで起こっていて、そのたび、農民が駆り出されたりして、誰が死ぬか分からなかった。
 領主だといっても、戦に負けてしまうと、
「責任を取って、切腹」
 というのが当たり前。
 そうなると、誰が生き残るかというのは分かったものではないのだ。
 だから、
「不老不死を望むのも当たり前」
 ということにあるだろう。
 不老不死というのは、確かに望みたくなるのは分からなくもないが、逆に今の時代ともなると。
「老人ほど、生きづらい時代はない」
 といってもいいかも知れない。
 何といっても、
「老後は地獄」
 というこんな時代にした政治家に恨みの一つも言いたいくらいだ。
 そう思うと、
「長生きなんかしたくない」
 と思うのも当たり前というものであろう。
 それを考えるから、
「限られた命、時間がある限り、したいことをできるだけして、自分の作品を残し続けたい」
 と思うのも、当たり前のことであろう。
 だからこそ、
「老人になって時間というものを、今一度思い返すようになった」
 といってもいいだろう。
 もっとも、昔も老人がひどい目に遭う時代もあったことだろう。
「姥捨て山」
 という言葉があるくらい、
「貧しくてまともに食べることもできない時代は、老いた人間を養っていけない」
 ということで、
「山に捨てに行く」
 という風習があったという。
「いつの世でも、黙って苦しめられるのは、老人」
 ということになるのであろう。
 山村は、その日、何度目かの、
「我に返った時間」
 ということで、少し店内を散歩した。