対になるもの(考)
「最初から、その二人のうちのどちらかを狙うか」
ということでなければいけないはずなのに、それをうまくやっていたのだ。
そこには、作者による、
「叙述トリックが含まれていたわけで、読者が騙された」
といっては語弊があるかも知れないが、内容としては、そういうことだったのだ。
そういう意味で、
「対になるもの」
というのが、実は。
「争いの種になる」
ということを利用しての犯罪であったが、
もっといえば、
「無意識のうちに、対になるものは、相手を嫌悪し、そこに殺意が生まれる」
ということもあるということである。
それをうまく利用するという考えがあることで、このような、殺人計画ができあがり、この殺人計画メモというものを作ることで、さらに、
「相手に対しての殺意を、余計に増幅させる」
という暗示が含まれているのかも知れない。
この話には、
「宗教的な発想が含まれていた」
そもそも、
「自分と敵対している」
いや、
「ライバル関係にある」
という人を殺したいと思ったが、村の中で普通に殺害すれば、一番最初に疑われるのは自分である。
ということで、それぞれに自分と同じ発想を持っている連中の何人かとの、
「共同謀議の犯罪だった」
といえるだろう。
ただ、そこに、
「動機という意味での接点はない」
といえる。
「ただ、お互いに、対になるライバルを邪魔だと思い、それぞれで殺人計画を練っていたということを、誰かその中の一人が気が付いて、それぞれに計画を打ち明けて、皆の犯罪を一つにすることで、それぞれ連続殺人に見せかけることで、捜査のかく乱を狙う」
ということを考えたのだ。
「殺人事件において、共犯が多ければ多いほど、露呈する可能性は大きい」
と言われる。
この事件の場合は、
「共犯」
というわけではないが、
「皆それぞれ計画した犯行を、一人がとりまとめ、まるでコンダクターとして、全体を取り仕切る」
ということが、この事件の特徴であった。。
だから、
「もし、計画が少しでも漏れると、致命傷になりかねない」
ということでもあった。
そもそも、警察としても、
「確かにこの村は、対になる人が多く住んでいる」
というところが特徴の、変わった村だという認識はあった。
しかし、それが、殺人の順番になっているということまでは考えなかった。
事件を見ていくと、殺害方法としては、
「毒薬による殺人」
というものであり、
「無作為に配られたものの中の一つの食事に、毒が入っていた」
ということで、あくまでも、
「無差別殺人」
ということであった。
実際には無差別ではなく、
「配膳の方法に、昔からの村の、掟のようなものがあり、村人は分かっていたが、警察は知らなかった。何といっても、残った方は、自分が犯人なのだから、言い出すわけはない。しかも、それ以外の人も、そのことを口にしてしまうと、自分が犯人ではないかと警察に疑われるから、口にすることもない」
ということであった。
そして、何といっても、問題は、
「この村が閉鎖的な村だ」
ということである。
それもそうだろう、
「昔から続く、旧態依然とした村というのは、閉鎖的なものだ」
と決まっているということである。
それを考えると、
「事件をカモフラージュするには、この村の体制であったり、特徴は、実にうまくできている」
といってもいいだろう。
しかし、ある時、この、
「殺人計画メモ」
というものが見つかったことで、
「殺人のパターン」
が変わった。
それは、警察から見れば、
「犯人側にとっては都合の悪いことで、それをごまかすために、殺害方法を変えたということではないか?」
と思われたが、実は逆だった。
「殺害方法を、楽な他の方法にすることで、警察が考えたような方法にミスリードできると、この殺人計画メモを示すことで、警察を錯乱できる」
という、逆を考えていて、しかも、それが、
「一石二鳥」
という考え方になるのであった。
それだけ、犯人の中の主犯というのは、
「頭がいい」
ということになるのだろう。
もっと言えば、
「この犯罪の動機としては、対になるものが、反発する習性がある」
ということであり、しかも、
「その習性というのは、旧態依然とした昔から受け継がれていたところに潜んでいるものである」
というところからくるものであった。
そんな、
「旧態依然とした村」
に起こる殺人事件というのがあるかと思えば、今度は、殺人事件が主題ではなく、どちらかというと、SFチックであり、オカルト的な話がテーマとなっているものもあった。
その話は、もちろん作者が違っていて、作者は、副業で、
「学者をしていた」
ということであったが、実際には、
「学者が本業で、小説家は、副業なのかも知れない」
ともいえたが、
「作家としての収入もかなりのもので、売れっ子作家として、十分なだけの名前の売れ方であった」
といえるだろう。
いつもトリックには、
「冷静に見れば、殺人事件を探偵が解決する」
というストーリーにしか過ぎないのだが、そこで使われるトリックが、
「科学的に理路整然とした内容だ」
ということで、
「そう簡単に作者の意図が分かるものではない」
ということで、
「途中がなかなかわかりずらい」
という難点があったのだが、
「実際に読み込んでいくと、最後には、読者が、感心させられるストーリーになっているのである」
そこで、読者は、
「ああ、そういうことだったのか?」
と感じるのだが、そこには、
「なんだ、そういうことか」
という思いも若干あるのだ。
しかし、途中のダラダラ差がすることで、最後に、
「なんだ」
と思わせることでも、すっきりさせられるという発想に結びつくということで、そこまで落胆することはない。
元々、この小説家は、
「小説は趣味で書いている」
というくらいに気軽に書いていた。
本来であれば、
「書きたいことを書く」
というのは、小説家のプロでは、なかなかできることではない。
何といっても、出版社との契約があるので、
「出版社に、売れる小説」
と思わせないといけないわけなので、それでも、
「書きたいことを書く」
ということを貫きたければ、
「この作家にしか書けない」
というような、独創的な作品で、しかも、それが、
「売れる」
というものでなければ、なかなか成立はしないだろう。
そういう意味で、
「この作家は天才肌ではないか?」
と言われているのだった。
そもそも、学者なので、
「科学的な知識は持っている」
ということで、
「SF的な色を、ミステリーに埋め込む」
ということが得意な作家で、これまでに、
「法医学」
として、これまでの探偵小説のトリックの部分を打ち破るかのような小説はたくさんあったが、
「自然現象などを科学的に解明することをミステリーと結びつけることで、SFチックな話に仕上がる」
という新しいジャンルを確立させていたのだ。
しかも、最近では、そこに、