対になるもの(考)
それを考えると、
「ギリシャ神話」
というものに限らず、聖書であったり、北欧などに伝わる寓話であったりというものは、
「しょせん、人間が作っているのだから、人間の想定以上のことを描くことは不可能だ」
ということになる。
そうなると、
「世界の七不思議」
と言われるものの、
「ナスカの地上絵」
であったり、
「ピラミッド」
というものは、人間の想像をはるかに超えているので、
「宇宙人が作った」
という説か、それとも、古代には、今の人間とは違う人類がいて、彼らがやったことであり、その彼らが、何らかの方法で滅んでしまい、人間が降臨している。
ということになるのだろう。
ただ、
「男と女」
ということであれば、他の神話などでは、必ず、最初から登場する形になるだろう。
聖書などでは、
「アダムとイブ」
古事記などでは、
「いざなぎ、いざなみ」
という男女がそれぞれ登場する。
そして、そこから、
「新たな命が誕生し、種族としての人間が、増えていく」
という考え方である。
そこには明記していないが、
「性行為」
というものが存在するのは、当然のことであるが、だが、矛盾しているという話もあったりする。
それが、
「キリスト誕生」
ということで、キリストの母親である、
「聖母マリア」
と呼ばれる人は、
「処女なのに、キリストを生んだ」
と言われているが、それはウソだと言われている。
あくまでも、
「結婚前に生んだ」
ということであり、今の時代であれば、
「不倫」
あるいは、
「不貞」
ということで、
「姦通罪に処せられ、重罪」
ということになるのだろうが、旦那になるヨセフは、それを許すことにした。
彼が、神を信じていて、寛大だったということからであろう。
だから、
「聖母だから、性行為もしないのに、キリストを宿した」
ということで、それこそ、
「神の生まれ変わりだ」
といえるほどの女性像を、作り出そうとする、一種の
「プロパガンダ」
なのかも知れない。
いくらキリスト教といっても、宗教なのだから、
「プロパガンダ」
の一つくらいあっても当たり前ということではないだろうか。
そもそも、キリスト教というのは、その布教において、歴史的に、
「うさん臭さ」
というのが残っているではないか。
過去の戦争において、十字軍にしても、ほとんどの宗教戦争には、
「キリスト教」
あるいは、
「イスラム教が絡んでいる」
といってもいいだろう。
さらに、イギリスにおける、
「清教徒革命」
と呼ばれるものも、
「同じキリスト教ということであるので、ただの派閥争いのようなものではないか?」
といえるのかも知れない。
実際に、さらに十字軍というのも、イスラム教との闘いということで、歴史の上で、
「戦争というものに、宗教が何らかの形でかかわっている」
といってもいいだろう。
今から500年ほど前のこと、いわゆる、
「大航海時代」
というものがあったが、この時代には、
「アフリカの喜望峰を回ってアジアに来るコース」
あるいは、大西洋を渡って、アメリカに入るコースが発見された。
そして、アジアに船でやってきたポルトガルやスペインは、
「そこでアジア諸国に何をしたのか?」
ということである。
彼らは、まず、
「宣教師」
というものを送り込んで、
「キリスト教の布教」
という名目でやってくるが、他のアジアの国は別かも知れないが、日本の場合は、
「キリスト教を保護すれば、南蛮と貿易ができる」
ということを狙って、キリスト教布教を許したのだ。
ちょうど、時代とすれば、
「群雄割拠の戦国時代」
この時代において、南蛮文化というのは、
「金になる」
というだけではなく、
「武器が手に入る」
ということもあったのだ。
特に、
「種子島に流れついた、鉄砲の威力は、各大名を驚かせた」
そして、
「高価な鉄砲を手に入れるためには、金がいる」
ということになるのだ。
つまりは、
「キリスト教の布教を許せば、貿易ができる」
ということで、キリスト教の布教は、二の次だったのだ。
ただ、中には、キリシタン大名と呼ばれるように、
「大友宗麟」
「高山右近」
「明石全登」
などという人たちが、キリスト教徒となっていったのだから、それだけ、戦国時代において、それを受け入れようとする人も少なくないということであろう。
しかし、欧州の国は、そんなに甘くはなかった。
彼らの本心は、
「植民地化」
であった。
相手国に、貿易を餌にキリスト教を普及させ、キリスト教徒が暴動などを起こしたその隙に、自軍を送り込み、そこで、
「武力をもって、その国を征服し、植民地化する」
という、完全な、
「侵略」
ということである。
日本は、
「侵略はされなかったのが運がよかった」
というべきか、それとも、
「日本の軍の強さに、逆らえない」
とでも思ったか、それだけ、群雄割拠の時代は、激烈な時代だったということになるのであろう。
さすがに、天下統一されてしまうと、今度は、
「天下を治めるためには、天下人の権力が不可欠で。その中で、天下人以外を崇めるということは許されない」
ということになる。
それは、権力に執着しているというよりも。元々の侵略国にとっての、
「国を混乱させる」
ということに対しての戦略といってもいいだろう。
ただ、やつらがやっていることは、
「戦時においての、定石」
といってもいいかも知れない。
なぜなら、相手国にスパイなどを送り込んで、諜報活動をさせたり、混乱を内部から起こさせるという、かつての共産主義国のようなやり方に近いものだったといえるだろう。
つまりは、キリスト教の宣教師というのは、
「相手国を混乱させるためのスパイのようなもの」
ということである。
それを歴史の授業では、
「秀吉のバテレン禁止令」
などによって、長崎で磔にされたキリシタンであったり、
「徳川時代に、踏み絵などを踏まされて、まるで、魔女狩りでもしているかのような、隠れキリシタンのあぶりだし」
というものをすることに対して、
「無慈悲でひどいこと」
という風に習ったが。果たして本当にそうなのだろうか?
これこそ、
「伝染病における、水際対策」
ということではないのだろうか?
確かに、今の日本国では、
「宗教の自由」
などというものがあり、
「キリスト教の迫害を行ったあの時代は、極悪な時代だった」
といってもいいのだろうか?
領土を守るために戦った戦と何が違うというのか。
戦に対しては、何も悪いようにはいっていないのに、キリシタンを排除することに関して、なぜここまで言われるのか?
国を侵略しようとしている連中を鎖国をしたり、さらには、キリシタンを撲滅したりしているのは、
「国防のため」
ということだ。
それを思えば、
「歴史の何が正しいというのか?」
ということになるであろう。
一ついえることは、
「宣教師は海外からやってきた」
ということである。
大日本帝国が、日本国に生まれ変わった時、