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対になるもの(考)

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「男にははめ込むものがあり、女にはそれを受け止めるものがある」
 ということで、その二つを合わせると、
「ピッタリと重なり合う」
 ということを示している。
 鍵だって、びったりと合わないと、開かないではないか?
 それと同じ発想である。
 そこから、
「種の保存」
 というものの基礎ができるわけで、
「人類をはじめとする高等動物の発展」
 ということになるだろう。
 そう考えると、
「人類の繁栄」
 というものが、どこかで限界を迎えるということになれば、今度は、
「他の高等動物が、人間にとって代わる」
 ということになるかも知れない。
 考えてみれば、
「地球上で人類が生まれてくるまでに、他の生物が存在していたのである」
 それが、恐竜であったりするわけで、その恐竜が、
「地上の王者」
 だったのである。
 だとすると、
「恐竜は誰が作ったのか?」
 ということになる。
「これも神が作った」
 ということなのだろうか?
 だとすれば、氷河期によって、恐竜が滅亡したというのも、ただの偶然ではないのかも知れない。
 そこに、神の考えが潜んでいて、
「恐竜の時代にも、そろそろ限界がある」
 ということで、氷河期を使って。滅ぼしたのかも知れない。
 何といっても、
「聖書」
 というものの中で、一度神は、
「ノアの箱舟」
 の中において、一度は、
「人類を滅ぼした」
 ということになっている。
 恐竜ほどでかいものは、
「氷河期というものでしか滅ぼせないが、人間くらいであれば、洪水で何とかなる」
 ということなのだろうか?
 人類が、滅んでしまう理由としては、いろいろあるのかも知れない。
 しかし、
「一度使った洪水を、もう一度使うのかどうか?」
 それは何ともいえないだろう。
 世紀末に話題になった、
「ノストラダムスの大予言」
 というもので、いわゆる、
「1999、7の月に、恐怖の大王が降ってくる」
 ということで、
「人類なのか、地球全体なのかが滅びる」
 と言われているが、それが実現しなかった。
 それを、
「解釈が違っているのではないか?」:
 ということで、もう一度、年月の逆算を考えているが、その人たちは、間違いなく、
「いずれ人類は滅亡する」
 と考えているだろう。
 ただ、
「それが地球規模なのか?」
 それとも、
「人類だけの問題なのか?」
 ということは、誰に分かるということなのだろうか?
「凹凸の関係」
 というものの中で、いわゆる、
「レンズの関係」
 というものが、一番しっくりくる発想ではないだろうか?
「凹レンズ」
「凸レンズ」
 というものがあり、これが、メガネであったり、虫眼鏡などに、レンズとして使われていることで、生活に密着したものだったりする。
 レンズという発想だけではなく、もう一つ考えられるものとして、
「鏡というものがある」
 考え方によっては、
「鏡とレンズ」
 というもので、それぞれに、
「対になっているもの」
 と考えてもいいのではないだろうか?
 というのも、
「レンズというものは、光を通すことで、屈折を生む」
 というもので。
「鏡というのは、同じ効力を持ったものを、光を通さないで反射させることで、屈折ではなく、自分を写す」
 というものとの違いだと考えると、
「対になる」
 といえるのではないだろうか?
「対になるというものは、あくまでも、どこかまでは、同じ性質のものであり、それが途中で分かれることで、少しずつ離れていくことになるのだが、その距離が一気に離れたことで、対になっている」
 と、考えさせるものではないだろうか?
 そう考えると、
「対になっているものは、元々から対だったわけではなく、対になることで、いかに、自分たちに役立たせるか?」
 というために、できたものではないだろうか?
 そう考えりと、
「これが果たして神から与えられたものではない」
 といえるかも知れない。
 もっとも、
「男女のような、種の保存には不可欠なものは与えられたであろうが、それ以外は、その知能によって考えられたもの」
 ということで、
「人間にしかないもの」
 という対があるとすれば、それは、
「人間がオリジナルで作った」
 ということになるだろう。
 それを考えると、
「人間は、神から独立して、自分で成長してきた」
 ということになるだろう。
 そうなると、
「神というのは、人間を創造するだけの存在」
 ということになり、
「人間を滅ぼすなどということはできない」
 と考えると、
「神が人間を救ってくれる」
 という発想は間違いであり。人間のある意味、傲慢さなのか、あるいは、
「救われたいということでの、依頼心からくるものなのか?」
 ということで、
「宗教というものは、どこまで信じていいものなのか?」
 ということになる。
 カルト宗教が、
「人間の弱みを利用して、自分たちの利益を得ようと考えているのであれば、悪い神という存在は、人間の中に潜んでいるものなのかも知れない」
 といえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「神様というものがどういうものなのか?」
 ということを考えると、
「人間にとって、いい存在として考えることができなければ、その時の支配者によって、いかようにも、操られる」
 ということで、
「洗脳された国家」
 ということになり、それが、
「独裁国家」
 というものを生むことになる。
 しかし、歴史には、そんな独裁国家がたくさんあったが、実際には、それが、
「洗脳によるもの」
 ということではなく、
「強い政府を国民が求めた」
 ということで、その強さを元首が宣伝しないといけないということで、出来上がった独裁国家というのが、
「ナチス」
 だったりするのだ。
 これは、最初から、
「宗教というものに裏付けられた国家」
 ということではなかったので、
「元首が、国民を扇動する」
 ということしかできなかった。
 だから、扇動するということに長けたヒトラーが、国を一つにまとめただけのことであって、それは、
「宗教による裏付け」
 というものがなかったからだろう。
 だから、逆に戦勝国からすれば、
「国家を一人の人間が掌握し、洗脳し、扇動した」
 ということで、
「独裁国家にして、亡国へと追いやったヒトラーは、極悪だ」
 と言われるかも知れないが、実際にはどうであろうか?
 確かに、
「大量虐殺」
 ということで、
「ホロコースト」
 などという、人道に外れたことをやったと言われるかも知れないが、
「戦争というそのものが、大量虐殺というものだ」
 という事実があるにも関わらず、ナチスのみを悪者にしたのは、
「勝者の理論」
 といってもいいかも知れない。
 だから、日本でも、
「極東国際軍事裁判」
 ということで、
「勝者が敗者を裁く」
 ということになったのだ。
 これは、本来であれば、おかしなことであり、第三国が、国家を裁くのであれば、分かるが、
「人間を裁く」
 ということがあっていいのだろうか?
 確かに昔の日本の戦国時代などでは、
「敗戦の将」
 というのは、
「責任を取って、切腹」
 というのが当たり前だった。
作品名:対になるもの(考) 作家名:森本晃次