対になるもの(考)
実際に、敗戦時に、自害した人もたくさんいた。
それがどこまでが、正義なのか、それは分からない。
これも、
「永遠に答えが出るわけのない」
という、
「歴史が出してくれるはずの答え」
ということになるのだろうか?
鏡というものも。一つの、
「対になるもの」
ということで考えると、
「合わせ鏡」
というものが考えられる。
この合わせ鏡というものは、
「人を真ん中に置いて、その前後に、鏡を置く」
ということから始まる。
「その鏡には、目の前に写っているものとして、自分が写っているのは当たり前で、その後ろに、鏡が写っている。その鏡にも写っているものがあるわけで、それが、背中を向けている自分というわけだ」
そして、
「その向こうには、また鏡があって……」
ということで、鏡は、永遠に続いていくものであり、それが無限かどうかということで、また考え方が変わっていく。
それが、
「合わせ鏡」
という発想である。
というのも、合わせ鏡というのは、普通の鏡というのが、発想の基本になっているわけで、鏡が途中にあって、また同じ場所を写しているということであり、
「そこに映っているものの距離は変わらない」
ということになるであろう。
要するに、
「距離が遠くなっていくにしたがって、どんどん小さくなっていく」
ということであり、それは逆に、
「実際には小さくなっているわけではなく、遠くなっているだけのことだ」
といえるであろう。
この発想が、
「限りなくゼロに近いもの」
ということになるわけで、これが数式における、
「整数から整数を割る場合に、何回やっても、ゼロになることはない」
ということである。
そして、そのことが、逆に、
「ゼロになることのない限りなくゼロに近いということで、そのものが存在している以上、合わせ鏡が映し出す範囲は、永遠だ」
といえるのではないかということであった。
要するに、鏡というのは、
「そこに反射して映っているというだけで、錯覚を起こしても分からないもの」
という発想になるのではないか?
ということであった。
それが、
「鏡の中でも不思議な発想」
ということで考えられるものとして、
「左右は反転して見えるが、上下は反転しない」
というものであった。
大団円
「鏡というのは、確かに不思議な発想で成り立っている」
といえる。
合わせ鏡の発想もそうであるが、それ以上に不思議なものとして、
「上下に、なぜ反転しないのか?」
ということである。
これを、普通に、
「当たり前のこと」
ということで、意識している人はなかなかいないだろう。
そして、人から、問題提起を受けて、初めて、
「ああ、そうだ。確かにおかしい」
と感じるのではないだろうか?
これは、
「石ころの発想」
というものと似ているかも知れない。
石ころのように、目の前にあっても、まったく意識することもない。
このような、
「上下が反転しない」
という発想も、どのように考えればいいかということであり、
「そもそも、石ころのように、考えないでもいいこと」
というものを、無意識に判断しているということであれば、
「その発想に理屈をつけるということは無理なのではないか?」
と考えられるだろう。
だが、いくつか、考えられることを論議しているのだろうが、
「これと言った決定的な理屈があるわけではなく、しかも、それをそれぞれに証明できるかどうか?」
ということになれば難しいだろう。
一つの考え方ということで、
「本当は。そこに鏡があるから分からないということで、後ろを向いている自分がそこに隠れていると考えれば、鏡の向こうにいる自分が見ると、左右は反対になるが、上下は反対になるわけではない」
ということだ。
これは、一種の
「合わせ鏡」
というものを、
「交互に見ている」
という発想になるのではないだろうか?
それを考えると、
「合わせ鏡」
というのは、
「鏡の反転が、左右の反転だけで、上下ではならない」
ということの証明として使えるのではないか?
ということである。
対という発想も、そこからくるものだと考えると、うまく発想できるものではないといえるのではないだろうか?
だから、最初に書いたように、
「肉体的に、表から見える部分は、二つあって、それが対になっている」
ということに繋がっていくのではないか?
最初の章では、
「顔の部分」
と、
「内臓」
というものの比較であったが、身体にだって、
「左右対称のものがある」
ということである。
それが、
「手というものであり、足というものである」
それぞれに、
「二つなければいけない」
という意味では、顔とは違う。
顔の場合は、五感というものでの、
「視覚」
「聴覚」
「嗅覚」
「味覚」
というものを感じるためのものであるが、
「触覚」
という意味では、
「身体全体」
がその対象になっているわけであり、ある意味、
「その触覚が、他の4つの感覚に匹敵するだけの役割をしている」
という意味で、
「手足というのは、それだけの役割を持っている」
ということである。
身体の中にある
「対になっているもの」
それが、
「どれほど大切なものであるか?」
それが、今回のお話ということになるのであった。
「もし、人間に対という概念がなかったら」
と考えると、
「知性という意味で、人間は、最下等動物になってしまうかも知れない」
( 完 )
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