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対になるもの(考)

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「確かに人間は、神に作られたものだとすると、どちらが先なのかというのは、一目瞭然ではないだろうか?」
「ニワトリが先だ」
 というのが、一般的に言われることであろう。
 それは、
「たまごというのは、表に出るものではなく、母体の中に埋まっているものだから」
 ということで、
「哺乳類というものが、動物の中でも、高等動物に位置づけられるのは、そのためではないか?」
 といってもいいだろう。
 しかし、この、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 と言われる禅問答というものの中には、もう一つの発想として、
「人間を作ったのは、神だ」
 ということになれば、
「じゃあ、神は誰が作った?」
 ということになる、
 ギリシャ神話の世界であれば、あくまでも、勝手な発想であるが、
「全能の神であるゼウス」
 が、オリンポスの神々を作ったということではないか?
 ただ、そうであれば、
「ゼウスは誰が作ったのか?」
 ということになり、
「神を含めた生命というものは、必ず誰かが作った」
 という発想を結び付けるとすると、
「無限なものではないか?」
 としか思えない。
 ただ、それは、
「人間が発想する」
 ということで、神からすれば、その答えは分かっているのかも知れない。
 そして、そのことを、
「人間には決して知られてはいけない」
 ということで、神々を含めた世界は、成り立っているといってもいいだろう。
 それを考えると、
 男女の存在は、種の保存を可能にするものとして、不可欠であり、理屈に合う存在だということになれば、
「対というものが、必ずしも、同じような形であったり、対という発想である必要はない」
 といえる。
 動物であれば、人間から見れば、
「パッと見、それほど違っているようには見えない」
 というものであるが、歴然とした違いはある。
 だから、人間も他の動物から見れば、
「男なのか女なのか区別がつかない」
 と思われているのかも知れない。
 この男女の違いが、一種の
「凸凹の違い」
 ということになるのかも知れない。

                 凸凹の関係

 人類においての男女の関係というのは、
「種の保存」
 ということで、お互いに、
「男女」
 というものだけで分類できるというものであった。
 もちろん、
「民族の違い」
 というのは、その自然環境から変わってきているとすれば、それも必然のことであろう。
 しかし、それが、聖書にある通り、
「バベルの塔」
 の話の中で出てきた、
「言葉を通じなくして、全世界に、散っていった」
 ということが、民族の始まりだということになると、それは、
「実に皮肉なことだ」
 といえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「バベルの塔」
 というものが、聖書という物語の、
「節目になっている」
 といってもいいかも知れない。
 聖書は、その話、それぞれに、言いたいことがいくつも含まれているようだが、このお話の原点というのがあるとすれば、それが、
「バベルの塔」
 の話だといってもいいのではないだろうか?
 時代は、進んでいっても、
「男女差別」
 というのはなくならない。
 ただ。それが、本当に差別だったのかどうか、何ともいえない。
 歴史において、
「絶対に男でないとできない」
 あるいは、
「女性は、種の保存という意味を考えてなのか、無意識からなのか、守らなければいけない」
 という存在だったとすれば、今までの歴史が、
「間違っていた」
 といえるだろうか。
 そもそも、
「歴史というもののどこに正解があるというのか?」
 という考えもできるというもので、
 確かに、時代時代で、
「歴史が答えを出してくれる」
 と言われたりしているが、果たしてそうなのだろうか?
 例えば、
「戦国時代の、群雄割拠の頃に行われていた、今では信じられないような風習であったり、慣習が、間違っていたのか正しいことなのか?」
 というのを誰が判断するというのだろう?
 歴史を研究するということで、
「考古学の発掘を中心にしている学者」
 あるいは、過去の文献などを解読することによって、原始時代から新しい時代を読み解くという歴史の先生と呼ばれる人が、
「その答えを出せる」
 というのだろうか?
 今は、発掘などもどんどん進み、今まで言われてきたようなことが、
「実は違っていたのではないか?」
 というのは、ここ十数年くらいの間に相当な数出てきたりしたものだった。
 特に、
「肖像画に描かれている人で、実は言われていた人物ではない」
 というのは、どんどん出てきている。
 また、
「昔から言われてきた、謀反人であったり、裏切者」
 ということでも、
「悪人」
 というレッテルも、どんどん剥げていって、
「汚名返上」
 というものが行われているのであった。
 特に、過去の文献などというのは、その時代時代の支配者によって、書き換えられているということがある。
 徳川時代になれば、
「徳川に都合のいいように、歴史書が書き換えられるというのは当たり前のことであった」
 というのは、
「そうしておかないと、支配するにおいて、誰も従わない」
 ということでは困るわけで、
「神話であってもいいから、まるで支配者が神であるかのように信じ込ませることで、庶民を従わせるということになる」
 というわけである。
 そう考えると、
「神という存在を、でっちあげ、支配者に都合のいいように解釈させる書物」
 があってもいいということだ。
 しかし、聖書であったり、神話というものは、必ずしも支配階級によって作られたものではなく、どちらかというと、
「宗教が絡んでいる」
 というものが多い。
 それは、
「宗教画政治に絡んでいた」
 ということの証明かも知れない。
 しかし、中世において、
「キリスト教などが、侵略に使われる」
 という黒歴史などがあることや、
「宗教を使えば、人を支配することができる」
 などという伝説が生まれたことで、今の時代、
「新興宗教」
 であったり、
「カルト宗教」
 などというものが、どれほど世の中に害を与えているかと考えると、ある意味、
「神の世界に導く」
 という従来の宗教と、
「詐欺やテロ集団となっている」
 というカルトな新興宗教とが、
「対になっている」
 ともいえるのではないだろうか?
 これこそ、
「凹凸の関係」
 といってもいいかも知れない。
 その場合の表現とすれば、
「でこぼこの関係」
 というものであり、人間の男女などという関係は、
「おうとつの関係」
 ということで、実際には、
「かなりの違いというものが、そこには存在しているのかも知れない」
 ということになるであろう。
 この、
「凸凹の関係」
 として、
「男女の関係」
 が考えられるが、これを、
「おうとつの関係」
 ということであれば、
「古事記」
 というものの中にあった、
「凹凸の関係」
 のような描写で、それが、まるで、
「男女の営み」
 を思わせるものがあるが、それは、まるで錠前のような発想からの表現ではないだろうか?
 というのは、
作品名:対になるもの(考) 作家名:森本晃次