対になるもの(考)
「人間を作った神からすれば、許しがたいことだった」
ということに違いない。
神は聖書の中で、何度となく、
「人類を滅ぼす」
というようなことをしてきた。
その一つに、
「ノアの箱舟」
という話があった。
これは、
「神が人間を滅ぼして、地上を浄化する」
と考えたからであろう。
人間は、それだけ、
「神が導こうとした形とは別の形に変わっていった」
ということであろう。
しかし、それでも、
「ニムロデ王」
のような、傲慢な人間が出てきたということで、
「神の逆鱗に触れた」
ということであろうが、それでも、神は人間を本当に滅ぼすということはなく、今に至っているわけである。
それを、
「神の御加護」
と考えるか、それとも、
「人間は放っておいても、自分たちで自分たちを滅亡させるものを作る」
と考えているのか、そういう意味で、
「自然現象であったり、可能性」
というものは、無限に広がっているものだが、
「人間に限らず、生命の存在しているものには、必ず限界がある」
ともいえるだろう。
それが、寿命であり、各動物に、それぞれ決まっているものだといえるだろう。
人間の寿命として、
「ほぼ、百年未満」
というこの長さが、
「長いのか短いのか?」
というのは分からない。
しかし、必ず死というのは訪れて、生き残った人間、いや動物は、実際に存在していないのだ。
「形あるものは、必ず滅びる」
という、
「諸行無常」
ということから、
「盛者必衰」
と言われる、こちらも、
「盛者が無限ではない」
ということで、それらが、
「宗教の発想」
というところに結びついてくるのであろう。
それを考えると、
「男女の営みによって、種の保存が保たれる」
という考えは、実に重要なことである。
生物が、無限ではないというのであれば、
「種をつないでいくしかない」
ということであり、
「最初に生まれた時代が、永遠に死ぬことなく続いていく」
ということが、
「タブーだ」
ということになるのだろう。
なぜ、
「タブーなのか?」
ということを考えるが、その理屈は誰にも分からないだろう。
何といっても、
「人間や、他の生物を作ったのは、神なのだから、人間が神にならない限り、そのタブーというのは分かるはずがない」
それを考えると、
「バベルの塔」
というものを作ったニムロデ王というのは、
「本当に、自分の力が神に届く」
ということは、
「自分が神として、支配するという権力を持ちたかったからなのだろうか?」
と、少しひいき目に考えてしまう。
考え方を変えると、ニムロデ王は、神様に近づくことで、
「生物が無限ではなく、男女の営みという形で、種の保存を図っている」
ということがどういうことなのか?
ということを知ろうとしたと考えるのは、考えすぎなのだろうか?
いや、
「種の保存や、生命の限界」
ということの秘密に触れようとすること自体が、神からすれば、
「許しがたいこと」
ということなのだろうか。
それをニムロデ王以降の人たちがしないように、
「戒め」
ということで、
「バベルの塔」
の話を作ったのかも知れない。
一種のでっちあげといってしまうと、それこそ神への冒涜になるのかも知れないが、ひょっとすると、
「それだけ神は、人間が自分たちに近づいていて、そのことを恐れている」
ということなのかも知れない。
聖書にしても、神話にしても、必ず出てくる存在として、
「人間の上には神様がいる」
ということであり、
「その人間を創造したのは、神だ」
ということになる。
さらに、昔、聖書を題材にした映画があったが、そのタイトルが、
「天地創造」
であった。
そう、聖書というのは、
「まずは天と地をおつくりになり、そこから、人間を作った」
ということになっている。
日本の古事記にしても、神がまず、日本列島を作るところから始まるではないか。
「ピラミッドと古墳」
という
「共通した陵墓」
という発想もしかるべきで、
「古代で、しかも、相当遠い、アフリカや中東、ギリシャなどと日本なのに、同じような発想というのは、偶然という言葉で表すことができるものなのだろうか?」
ということであった。
そうやって考えると、
「生物における、男女というものは、神秘な存在」
といってもいいのではないだろうか?
人間が、フレーム問題を解決できているのは、
「石ころを意識しない」
という発想からではないかと思うのは、少数意見であろうか?
確かに、人間は無意識に、
「フレーム問題というものを解決している」
ということになる。
つまりは、
「その時に考えられる可能性の中から、本当に必要な発想だけを切り取って判断ができている。
だから、迷うことなく、洞窟の中に入ることができるのであって、それは、
「フレームに当てはめる」
という、
「何もないところから、生み出す」
という発想ではなく、
「考えなくてもいいものは、最初から見えていない」
という本能のようなものを持っていることで、できていることなのかも知れないと考えると、
「果たして、人間が作る人工知能に、それを埋め込むことができるのだろうか?」
ということである。そうなると、
「それができるのは、神だけ」
ということになり、やはり、
「人間は神にはかなわない」
ということになるのだろう。
「凸凹の関係」
というと、
「凸凹コンビ」
という発想にあるように、それぞれに、対照的なところが多いという発想から言われるもので、
「あまりいい印象はない」
という人もいれば、
「かわいらしさがある」
と考える人もいるだろう。
確かに、
「どっちも男性、女性」
ということで、同性であれば、
「あまりいいイメージではない」
といえるだろうが、これが、異性であれば、
「男性が背が高く、女性が低い」
という状態であれば、
「つり合いが取れていて、いじらしい」
という風に言われる場合が多い。
それは、最初から、
「男性は背が高いので勇ましい」
というもので、
「女性の場合は、小柄がかわいらしい」
という印象がこびりついているから、そう感じるのであろう。
そういう、
「肉体的なイメージの違い」
というものから、
「男女の間に、最初から差別的なイメージがあった」
ということになるだろう。
「男が表で狩猟を行い、家で、女が料理をしたり、衣類を作る」
という習慣は、縄文時代からあったと言われている。
もちろん、
「見てきた人がいるわけではないので、その根拠がどれほどのものかは分からないが、実際に残っている資料の最古から、
「男女の差別というものが歴然として存在した」
というものがあるのだから、それが、根拠だということになるのだろう。
「歴史がそれを証明している」
といってもいい。
まるで禅問答のような話の中に、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
という発想があるが、まさにその発想は、無限に解決されないものともいえるだろう。