蔓延と慢性
「いたたまれない状況になっているからだ」
ということも言えるのではないだろうか?
虐める側とすれば、
「自分が家出迫害を受けている」
という場合もあるだろう。
そこまでひどくはなくとも、
「両親の仲が悪く、いつも喧嘩をしている」
などということで、ストレスがたまりに溜まって、それを抑えることができなくなり、結局、
「弱いものに、ストレスをぶつける」
ということになるのだろう。
だからと言って、
「虐められる人間はたまったものではない」
ということになるだろう。
確かに、家でのストレスを、家で解消させるわけにはいかず。結局、学校で、
「弱い者に向けられる」
という構図になるのだ。
だから、
「相手は誰でもいい。自分で気に食わないと思った相手であれば、それでストレス解消になる」
ということで、実際にストレス解消になっているのかどうかは分からないが、
「それしかない」
として、他が見えなくなってしまうと、自分の中では。
「苛めに対しての大義名分を考える必要はない」
と思うかも知れない。
本当は、
「家庭のストレス」
というものが理由にならないとは思うのだが、まわりで同じような苛めというものがたくさん出てくると、
「皆やっていることではないか」
ということで、それが、大義名分となるのだろう。
本当であれば、
「自分がされて嫌なことを、他の人にする」
というのは、精神的にはきついことだろうが、それを感じさせないようにするのが、
「集団意識」
というのだとすれば、
「社会現象」
となったことを、その原因を探るという検証をすることもなく報道する
「マスゴミ」
というのにも、責任の一端はあるかも知れない。
特にその時代あたりから、社会では、
「バブル崩壊」
というものがあった。
それまでは、
「やればやるほど、成果が形になって現れる」
という時代であった。
しかし、その成果というのは、実際には、
「実態のないもの」
つまりは、
「実態のないものを、書類上の成果」
ということで示しているのだから。結局は、どこかで、
「化けの皮が剥がれる」
ということになるだろう。
だから、
「バブル」
つまりは、
「泡のごとく」
ということで、泡が消えてしまうと、残るのは、
「バブルの正体」
ということで、その正体は、
「実体のないもの」
だったのである。
そうなると、すべてに連鎖していることで、
「一つの歯車が狂うと、自分に関係のあるところがすべておかしくなってしまう」
ということになる。
つまり、バブル経済というのは、
「歯車が、すべて噛み合っているというように見せていただけで、本来は、そんなことなどあり得るわけではない」
ということだったのだ。
要するに、
「すべてが幻だった」
といえるだろう。
だから、バブルが弾けてから、現実を見ると、
「どうして、バブルなんて信じたのだろう?」
あるいは、
「どうして、誰もこんな簡単なことに気づかなかったのだろう?」
と思ったことだろう。
中には気づいた人もいたかも知れないが、
「それを言ったところで、誰が聞いてくれるというのか?」
ということである。
もし、それを、
「経済評論家」
などと呼ばれる人たちが考えているのだとすれば、それこそ、
「大きな罪だ」
といえるかも知れない。
しかし、中には、
「下手にそれを提唱したとしても、今はまだ平和な状態なので、誰も信じないだろう」
ということで、今までの歴史から考えると、
「あまりにも突飛で、世間を惑わすようなことをいうと、ろくなことにはならない」
というものである。
「それでも地球は回っている」
と言ったガリレオなどがいい例というもので、ある意味、世間を惑わすようなことを言えば、必ず、
「政治家などに、都合の悪い連中がいたりして、握りつぶされる」
ということは分かり切っている。
そして、
「世間を騒がせた罪は重い」
ということで、少なからずの制裁を受けることになるだろう。
少なくとも、
「社会的制裁」
というのは受けるであろう。
「評論家であれば、その地位ははく奪され、世間を騒がせた男ということで、誰からも信用されないということにされてしまうに違いない」
それを考えると、
「俺が、何も先に声を出さなくとも、誰かが言ってくれる」
という他力本願になってしまう。
もし、最初に自分がそれを提唱し、他の人がその後押しをしてくれなかったら。
「俺は、ただの人柱ではないか?」
と思うだろう。
いや、
「人柱であれば、世間は自分の言い分を信じてくれるであろうが、この場合は、完全にその話も人間性もすべてを打ち消されるのだから、完全な犬死だ」
ということになるに違いない。
それは、あまりにも理不尽で、そんなことになるかも知れないというのに、誰が、率先して口にするだろうか?
それを思えば、
「口は禍のもと」
ということわざがあるが、まさにその通りであろう。
そんな、
「余計なこと」
を口にすると、必ず、社会的にも、人間的にも、消されてしまうということになりかねないと思えば、誰が口にするというのか。
しかも、あくまでも、想像ということで、
「本当にバブルが弾けるかどうか分からない」
といえるだろう。
「ゼロというものがないのだから、100%というのもありえない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「限りなくゼロに近い」
ということからの発想であるということが分かる。
これは、
「合わせ鏡」
のような発想で、
「前と後ろに置いた鏡には、永遠に、自分の姿が写っている」
というもので、これは、
「次第に小さくなっている」
ということであるが、この合わせ鏡というものが。
「永遠」
つまり、
「無限」
ということであれば、
「絶対にゼロにはならない」
ということである。
つまりは、
「整数から、同じ整数をずっと割り続けても、絶対にゼロにはならない」
ということで、これを表現するとすれば、
「限りなくゼロに近い」
ということになるであろう。
つまり、この、
「限りなくゼロに近い」
という発想は、
「無限」
あるいは、
「永遠」
というものに繋がっていくということに違いない。
だから、
「どんどん小さくなっていくものが、限りなくゼロに近いということで絶対にゼロにならないのだ」
とすれば、
「どんどん大きくなるものとすれば、今度は、絶対に100%になることはない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「風船が破裂するのは、100になったから破裂する」
という考え方もあるが、逆に、
「破裂したから、100だったんだ」
ともいえるだろう。
ただ、これは、同じことであり、ただ考え方の順序が違うということで、
「理解するための手段に過ぎない」
といってもいいだろう。
ただ一つ言えることは、
「破裂した」
つまりは、
「バブルの崩壊」
というのが、
「その世界が無限ではなかった」
ということの証明であり、
「こんなことは当たり前のことではないか?」