蔓延と慢性
ということではないうえに、
「世間にまともに戻ることができるかどうか分からない」
という状態で、生きていけるというのであろうか。
探偵小説において、
「トリックを考え、それを前面に出して、探偵や警察が、その謎に挑戦する」
という探偵小説を、
「本格派探偵小説」
というのに対し、それ以外のものを、
「変格派探偵小説」
と呼ぶということを提唱した探偵小説作家がいたが、その変格派の代表的なものが、
「耽美主義」
であったり、
「猟奇殺人」
であったり、
「SMのような、異常性癖による犯行」
というものであったりするのだろう。
元々探偵小説というのは、海外でできた発想であり、
「シャーロックホームズ」
というような、正当はの探偵以外にも、その双璧として言われていたのが、
「怪盗ルパン」
というような、
「泥棒が主人公」
という、今でいう、
「安楽椅子探偵」
と呼ばれるものが、最初からあったというのは、興味深いといってもいいだろう。
日本に渡ってきて、それまでは、純文学が多かった小説界に、探偵小説というものが、一つの新風を巻き起こしたといってもいいだろう。
やはり、
「シャーロックホームズ」
というものが、その先頭に立って、探偵小説界をけん引してきたといっても過言ではないだろう。
実際に探偵小説というものは、今では、
「推理小説」
「ミステリー小説」
ということで、必ずしも、探偵が出てくるという必要性はないものとなってきた。
社会が戦後の混乱から、落ち着いてくると、
「社会派小説」
と呼ばれるものが出てきた。
それは、時代が、
「人間性」
というものを求めたというべきか、その時代において、
「会社や社会の理不尽性が、社会が落ち着いてくることで、表面化してくる」
ということで、浮彫にされた社会の構造が、人間性と結びついて、
「社会派の事件」
というものを生むようになってきたということであろう。
オリンピック前後などは、
「公共事業の数が多く、一人でも人手がほしい」
という状態で、その中で、起こってくる、
「不公平」
であったり、
「理不尽さ」
というものが、
「差別」
という形で出てくることで、犯罪の根が育ってきたということもあったであろう。
その差別というのは、
「しかたなく出てきた」
というものだけではなく、
「労働者に対して、経営者が、無理をしてでも働くという状態にするために、わざと与える場合もある」
ということだ。
人間のライバル意識に火をつかされるために、煽るというやり方だ。
それで、勝った方に、何かの褒美を与えられればいいのだろうが、姑息な経営者などは、
「やらせるだけやらせればいい」
ということで、自分が恨まれるということを、これっぽっちも考えないのであれば、そこで恨みが生まれて、殺されることになっても、
「どうして、俺は殺されたんだ?」
ということを分からないままに、
「あの世にいく」
ということになる。
これが宗教でいうところの、
「天国にいくのか、地獄にいくのか?」
ということであれば、
少なくとも、
「人から恨まれて殺される」
という原因を作ったのが自分だということなのだから、
「地獄の判定が出た」
としても、それも無理もないことである。
しかし、ここでも、地獄に落ちた本人は、
「どうして俺が地獄なんだ?」
ということで、最後まで、
「なぜなんだ?」
と思い続けることであろう。
そもそも、
「地獄に終わりがあるというのか?」
ということなので、
「無限に悩み続ける」
ということになるだろう。
「それこそが地獄だ」
ということである。
犯罪の多様化
「恋愛感情のもつれ」
というものから、殺人事件に発展することも少なくない。
今の時代であれば、
「殺人事件にまで発展しないとしても、立派な犯罪」
というものも結構あったりする。
それだけ、
「世の中というのは、歪んできた」
ということになるのであろう。
そういう意味では、
「犯罪というのは、多種多様化してきた」
といってもいいだろう。
特に、世紀末から、新しい世紀に移り変わった頃、世の中がだいぶ変わってきたといってもいいだろう。
いや、
「一つの時代が終わった」
という意味では、ある意味、
「それぞれの節目の時に、世の中が変わってくる」
ともいえるわけで、何か不思議な感覚に襲われ、
「皮肉なことだ」
ともいえることもあったりする。
その一つが、
「昭和が終わった頃」
といえるのではないだろうか?
実際にその形が見えてきたのは、
「平成になってから、少しして」
ということであるが、その兆しというのは、昭和の頃からあったのだ。
その一番大きな社会現象としては、
「バブルの崩壊」
というものではないだろうか?
昭和のオリンピック前後から、いろいろあった。
そもそも、オリンピック前というのは、前述の、
「公共事業がたくさんあり、会場設営だけではなく、道路や鉄道などといったインフラの整備」
これは、
「開催国のメンツ」
という、それこそ、学校などで、授業参観があるということで、先生がシナリオを作って、父兄に、
「学校教育はちゃんとしている」
と思わせるための、
「よそ行きの授業」
を見せたり、逆に今度は、先生が家庭に赴くという、
「家庭訪問」
というものでは、
「家では、ちゃんとしている」
ということで、
「親がシナリオを作って、先生を欺く」
ということだ。
それこそ、
「子供だけが、それぞれの思惑に踊らされている」
ということで、それを子供が分かっているのかどうか。
「親も先生も分かっているのだろうか?」
と考え、
「第三者の目」
というもので見ると、
「これほど滑稽なものはない」
ということになるだろう。
今の時代には、なかなかそういうものもなくなってきただろうから、ピンとする人も少ないかも知れないが、
「昔がよかったのか悪かったのか?」
というのは、難しい判断となるのではないだろうか?
これが、平成の時代になってくると、学校では、
「いじめ問題」
というのが、深刻な問題になってきた。
昭和の頃にも、
「苛め」
という問題はあった。
しかし、それは、一時期のもので、次第に和解することが多かったのも特徴だった。
というのも、昭和の頃の苛めというのは、
「虐められる側にも、何らかの理由というものがあった」
ということである。
虐める方とすれば、
「それを分からせる」
という意味でのいじめだった場合が多く、虐められる側が成長するとともに、自分の悪かった部分が分かってくると、和解ということになるのだ。
しかし、平成になってからの苛めというのはそうではない。
虐められる側に、その理由があるとは限らないからだ。
しいて理由があるとすれば、
「見ていてむしゃくしゃするからだ」
という、虐められる側からすれば、それこそ、
「理不尽極まりない」
ということになるのだろう。
これは、虐める側が、