蔓延と慢性
というようなキャンペーンをした探偵小説作家もいたくらいだ。
だから、
「殺人のトリックの種類と、その状況を読者には正確に伝え、読者がそれをいかに論破して、トリックを見抜くか?」
ということである。
当然、小説では、殺害時の状況、犯人を言い当てるための材料、つまり、動機であったり、アリバイなどと言った情報は、もれなく小説で書いていないといけない。
ということは、
「懸賞を出すくらいの小説は、その内容も完璧でなければいけない」
ということになる。
だから、なかなか読者への挑戦は、
「お金に関しては、出版社が持つ」
ということになっても、小説家はやりたくはないだろう。
「中には、謎解きで、読者によっては、難癖をつけてくる人もいる」
だろうからである。
いわゆる、
「揚げ足取り」
といってもいいだろう。
そして、今度は、
「最後までトリックの種類が分かってしまっては困る」
という小説がある。
これは、
「一人二役」
ということであろうか?
なかなか、一人二役というトリックは、単独で使われることは難しいかも知れない。
何しろ、トリックを分かられては困るわけなので、
「いかに最後まで騙し切るか?」
ということが重要である。
そういう意味で、
「最初からトリックの内容が分かっている」
というものであっても、その本質が分からないようにするということでは、
「死体損壊トリック」
などは、分かりやすいものであろう。
というのは、この犯罪は、
「被害者が誰であるか分からない」
と警察や探偵に思わせるために、行うことだ。
「身元がバレる、顔や手首、さらには、特徴のある部分を分からなくする」
ということでの犯行である。
今であれば、
「DNA鑑定」
というものもできるだろうが、昔であれば、判定は難しいだろう。
しかし、敢えて、
「顔のない死体」
というものにするということは、探偵小説の場合であれば、
「一つの公式が成り立つ」
と言われていた。
もちろん、
「いつもいつも、そうだとはいえないだろう」
ということであるが、基本的にはという意味で。
「犯人と、被害者が入れ替わっている」
ということが多いと考えられていた。
そういう意味で、
「分かりやすいトリック」
ということであるが、実際の殺人でいえるかどうか?
というのは難しいものだ。
単純に、
「犯人が被害者を憎んでいて、そこで、首を切り取ったりするということで、それだけ、恨みが深い」
と言いたい場合もあるだろう。
また、犯人が異常性癖者で、殺人すら、
「芸術だ」
という、耽美主義者の場合もないとはいえない。
それこそ、猟奇殺人であり、犯人は、
「精神異常者」
と思わせることもあるだろう。
しかし、そうなると、
「犯人に、責任能力はない」
ということになり、
「無罪判決」
ということになるかも知れない。
もっとも、精神鑑定は行うだろうから、
「そこで、どのような診断が下るか?」
ということになる。
実際に無罪判決が下っても、犯人は、一生、警察の監視下にあるようなもので、俗世間に戻ることはできないことになるかも知れない。
これは、無期懲役に近いものであろうが、それで、被害者家族が報われるわけではない。
本当にそれでいいというのだろうか?
それを考えると、
「精神異常者による犯罪ほど、理不尽なことはない」
ともいえるだろう。
被害者家族が考えること、それは、
「どうして、私の家族がこんな目に」
と強く思うはずだ。
要するに、
「相手は誰でもいいから」
ということになるのだろう。
「人を殺したいから殺した」
ということなのかも知れない。
人殺しというものが、悪いことだと思っていないとすれば、
「そんな人間をのさばらしている警察が悪い」
とまず考えるだろう。
しかし、それ以前に、
「そんな人間を作ってしまった」
ということで、
「犯人の生い立ちにおいて、何があったのか?」
ということを知りたいと思うものである。
特に、
「幼児虐待」
であったり、
「学校でのいじめ」
であったり、
「セクハラ、パワハラ」
などという、今でいうところの、
「ハラスメント」
などで、追い詰められたりすると、精神に異常をきたすという人もたくさんいるだろう。
そして、一度発症してしまうと、
「薬で抑えないといけない」
という状態になり、しかも、他の精神疾患も一緒に併発するようになり、
「人を殺したくなる」
というような人間も出てくるだろう。
そして、
「性癖などが異常なだけで、頭の回転などは発達している人間」
というのが、
「猟奇犯罪」
というものを企むのかも知れない。
「犯罪は芸術、つまりは美だ」
という、
「耽美主義的発想」
によって、事件をいかに芸術として完成させることに、自分の生きがいを感じるという人間もいることだろう。
しかし、そういう犯人は、なかなかいない。
精神異常者が、耽美主義的な犯罪を犯すというのは、それこそ、戦前戦後の探偵小説などにおいて、
「変格派探偵小説」
と呼ばれるものであろう。
特に異常性癖にも、いろいろあるが、
「SMの関係」
というものへ執着した探偵小説もあった。
これこそ、
「耽美主義」
ということであり、さらに、SMの関係というのは、
「素人が遊び感覚でやってはいけない」
とよく言われる。
というのは、
「首を絞めたり、媚薬などを使ったり、あるいは、麻薬などでトランス状態を作り上げることで、肉体的にも精神的にも、最高のトランス状態を作り上げようとすると、人間の限界というものを分かっていないと、三途の川とは知らずに、渡ってしまう」
ということになる。
それが、
「殺人事件に発展する」
ということになる。
当然、二人は
「SM」
という遊びをしていたわけで、そこに精神異常というものはないだろう。
そもそも、
「SMというのは、西洋では、貴族であったり、紳士淑女の高貴な遊び」
とも言われているように、
「異常性癖だから、SMに走る」
ということではない。
たとえば、
「ムチで身体をうつ」
ということでも、うまい人が遣れば、
「痛みを一切残さない」
あるいは、
「腫れも残さない」
ということくらいは朝飯前だといえるだろう。
それをただの興味本位で、
「やってみたい」
というだけで、遊び半分でやってしまうと、トランス状態に持っていくわけなので、
「相手を殺してしまう」
というのも当たり前のことではないだろうか。
それを考えると、
「異常性癖ではなく、ただの無知が起こした犯罪」
ということになる。
だから、そこには、
「殺意はなかった」
ということであろう。
罪としては、いくら殺人でも、そこまで厳しくはない。執行猶予が付くかも知れないというくらいである。
しかし、犯人としては、
「動機もない」
というわけで、
「パートナーを殺してしまった」
という
「罪の呵責」
という十字架を背負って生きていくことになるのであろう。
それを思うと、
「刑に服す」