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蔓延と慢性

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 ということであるが、数年一緒に暮らしてから、離婚ということになった時の男女の気持ちというのは、また少し違ってくるというものである。
 新婚時代というのは、
「自分は、相手の気持ちを何でも分かっていて、相手に気を遣うように寄り添っている」
 ということを考えていることだろう。
「もちろん、相手も同じことを考えている」
 と思っているはずである。
 つまりは、結婚するということは、
「気を遣いあって暮らしていくこと」
 と思っているはずだ。
 しかし、それも、新婚のどこかまでということになるのではないだろうか?
「相手に気を遣う」
 ということが億劫になってきたり、
「相手が自分に気を遣っていない」
 ということを明確に感じることができなくなってきたりすると、
「もう新婚ではないんだ」
 と思うことだろう。
 しかし逆に、
「新婚ではない」
 と明確に感じることはなくとも、
「新婚ではなくなってしまっていた」
 と後から感じるということがあるかも知れない。
「どちらの方が多いというのか?」
 それは正直分からないが、どちらも、一定数はいるであろう。
 しかし、
「できるなら、明確な方がいいかも知れない」
 と感じる。
 やはり、結婚している相手とは、
「訳が分からないうちにそうなっていた」
 というのは嫌なのではないか?
 と思うことだろう。
 というのは、それだけ、
「結婚して家族になったとはいえ、元々は他人だ」
 ということになるからだろう。
 そして、結婚してから、明らかに変わるのは、
「子供ができた時」
 といえるであろう。
 新婚当初は、最初から、
「子供がほしい」
 と思っている夫婦と、
「最初はいらない」
 と思っている夫婦がいるだろう。
「子供がほしい」
 と感じている夫婦は、
「お互いに子供がほしいと思っていないと、明確に子供がほしいということはないのではないだろうか」
 そして、
「どちらかでも、子供はほしくない」
 と思っていれば、
「まだ子供はいい」
 と感じることだろう。
 なぜなら、子供を作るというのは、
「夫婦が協力しないとできない」
 ということだ。
 どちらかが、
「ほしくない」
 ということで、避妊をすれば、子度ができるということはないからだ。
 さらに、
「子供がほしい」
 と思って子作りに励んだとしても、
「絶対にできるとは限らない」
 ということが言えるからである。
 つまりは、
「子供を持つことができる確率は、子供がほしいという気持ちと、授かる確率とを掛け合わせる必要がある」
 ということである。
 それだけ、授かる可能性が低い中で授かったのだから、子供が生まれると、夫婦それぞれに嬉しく思うことだろう。
 中には、
「奥さんが子供がほしいということだから」
 ということで、
「しょうがない」
 ということで子作りに協力する旦那もいるだろうが、それでも、自分の子供を見た時、子煩悩になったという人もたくさんいる。それほど、
「子はかすがい」
 と言われるが、
「まさにその通りだ」
 ということになるだろう。
 ただ、子供というのは、
「かわいい」
 というだけで育てられるものではない。
 奥さんは、特に大変で、今でこそ、
「旦那が子育てに協力するのは当たり前」
 という時代になっては来たが、それまでは、ほとんど、旦那は、子育てに関心を示さないというのが当たり前だった。
 それは、
「バブルが弾けた」
 ということで、旦那の稼ぎだけではどうにもならない状態で、共稼ぎというのが当たり前という時代になってくると、
「夫婦が一緒に暮らす」
 ということがどういうことなのか?
 ということを改めて、思い知らされるような気になってくるのであった。
 もっといえば、
「お互いに気持ちの距離が出てくる」
 ということであり、
「お互いの立場が明確に変わってきた」
 といってもいいかも知れない。
 というのも、
「これまでは、お互いに、相手が何を考えているか?」
 ということが分かった気がしていたということである。
 しかし、子供ができると、少なくとも、奥さんは、子供にかかりきりになり、どうしても旦那がおろそかになる。
 そして、旦那とすれば、奥さんが自分の方を見ていないということに気づくようになるのだが、それを今までは、
「しょうがない」
 と思えたはずなのに、そう思えなくなるというのも、しょうがないところであろうか。
 つまり、
「男と女」
 というよりも、
「父親と母親」
 になってしまったということだ。

                 男女のボタンの掛け違い

「男と女」
 確かに、お互いに元々他人が、夫婦という新しい家族を作って二人で踏み出した生活であったが、
「子供がほしい」
 ということで、子供を作り、
「家族が増えた」
 というわけだが、
「子供にこれほどの手間がかかるとは」
 ということを思い知らされるわけだが、もちろん、それなりに覚悟というものはしていただろうし、それなりの勉強もしていたことだろう。
 しかし、実際に、勉強をしていたとしても、お互いに、一つのことに対して、感じることの差が激しく、相手の気持ちを分かっていないということになると、その距離は、
「見えなくなるほどに遠い」
 ということなのかも知れない。
 しかも、
「父親と母親」
 になってしまったということを思い知るというのか、それとも、
「思い知ることもなく、ただ、苦痛の日々を訳も分からずに過ごすというのか?」
 ということは、それぞれが、違った考えになった場合、
「前者が母親で、後者が父親」
 ということになるであろう。
 なぜなら、
「他人である夫婦の間に、それぞれの血がつながった家族が一人増えた」
 ということになるからだ。
 母親の方は、
「自分の腹を痛めて産んだ子で、しかも、子育ては自分がしなければいけない」
 ということで、
「夫に構っている暇はない」
 と感じることであろう。
 そして、旦那の方は、
「かわいいとは思うが、奥さんが掛かり切りで自分を無視しているように思う」
 と感じてしまうことで、中には、
「子供など作らなければよかった」
 と思うに違いない。
 特に、
「奥さんが、子供がほしい」
 と言った場合で、自分はそこまで、
「子供がほしい」
 と思わなかった場合など、特にそう感じるだろう。
 だから、奥さんの方は、子供ができ、その子供が自分と血のつながりがあるということを意識しながら、子育てをしているのだから、余計に旦那のことを、
「他人だったんだ」
 といまさらながらに感じることで、子供にのめりこむ自分が、旦那をおろそかにはしているが、それを、
「しょうがない」
 と思うか、それとも、
「旦那が分からないのが悪い」
 と感じるかは、やはり、
「旦那は他人だ」
 と感じることになるからであろう。
 奥さんがそんな風に思っているなどということを旦那はきっと分かっているはずなどないに違いない。
 旦那の方は、
「子供と奥さんが絶えず一緒にいて、自分を蔑ろにしている」
 という意識を思っているために、
「俺の立場がない」
 という思いと、
作品名:蔓延と慢性 作家名:森本晃次