小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

黒歴史

INDEX|6ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 といってもいいだろう。
 だが考えてみれば、
「自分だけが生き残って、若い状態でいてどうなるというのか?」
 ということである。
 ずっと若いままでいても、自分のまわりの人、つまり、
「愛する人たち」
 は確実に年を取って、死んでいくということになるのが、自然の摂理というものになるだろう。
 それを、
「浦島太郎現象」
 とでもいうのだろうか?
 竜宮城から戻った浦島太郎は、自分が住んでいた家のまわりはすっかり変わってしまっていて、
「自分を知っている人」
 あるいは、
「自分が知っている人が誰もいない」
 という状況において、失望だけが残ったのだ。
 だから、
「決して開けてはいけない」
 と言われた玉手箱を開ける結審をして、そこでおじいさんになったということなのであった。
 確かに、ここで終わっているのであれば、
「悲劇」
 ということになるだろう。
 しかし、果たしてそうなのだろうか?
 というのも、
「誰も知らない世界に一人取り残されて、それで本当にそのまま生き続けてもいいということなのだろうか?」
 それこそが、
「不老不死に対しての挑戦」
 といえるのではないだろうか?
 本来であれば、
「決まった命」
 というものを、決まった時代で消費するというのが当たり前のことだとすれば、
「この時代で生きていてはいけない」
 ということへの戒めとして、潔く、
「死を選ぶ」
 ということになるのかも知れない。
 特に昔は、
「戦争の歴史」
 というものがあり、
「寿命まで生きて、大往生」
 などというのは、なかなかない時代であった。
 戦争に駆り出され、理不尽な死に方をした人というのはかなりいただろう。
 それを思うと、
「誰も知っている人がいない世界で生き続ける」
 というのは、それこそ、
「地獄の苦しみだ」
 ということになるだろう。
 そもそも、その時代で生きられるとは限らない。実際には無理なことだろう。
 何といっても、
「家もなければ金もない」
 さらには、
「助けてくれる人もいない」
 ということで、
「もし本当のことを言ったとしても、誰も信じてはくれない」
 ということになるのだ。
 それこそ、その時代であれば、
「人心を惑わず怪しい男」
 ということで、
「まるで、何かの新興宗教と思われ、処刑される」
 ということになるかも知れない。
 これまでの、
「宗教の歴史」
 というものから考えると、
「間違いなく処刑に値する」
 ということになるだろう。
 西洋でも、
「魔女狩り」
 というものがあったり、日本でも、江戸時代に、
「キリスト教禁止令」
 というものから、隠れキリシタンをあぶり出すのに使われた。
「踏み絵」
 というやり方も、よくよく考えれば、
「人間の傲慢さが生み出したものだ」
 といってもいいだろう。
 実際に、それらの処断で、全世界的に見て、どれだけの人間が処刑されたというのだろうか?
 それを考えると、
「どれだけ恐ろしいというものか?」
 ということになるだろう。
 結局、世の中の理不尽なことを考えると、
「宗教に始まり、宗教に終わる」
 ということで、それだけ、
「宗教というのは侮れないもの」
 ということで、
「人間にとって、大きな恐怖になる」
 といえるのではないだろうか?
 そんな無限というものを考える時、
「俺たちが、無限を求めてはいけないのか?」
 という考え方になるだろう。
 しかし、実際には、
「無限というものは、求めなくても、目の前にある」 
 ということであり、
「そのことに気づかないのは、それが無限であるということを理解していないからではないだろうか?」
 それは。まるで、
「石ころというものの発想」
 といえるのではないだろうか?
 河原などに、一杯転がっている石ころ、それは、
「そこにあって、何ら不思議のないものなので、それをいちいち気にすることはない」
 といえるだろう。
 そんなことまでいちいち気にしていれば、
「次の瞬間に広がっている無限の可能性、それらすべてを考慮しなくてはいかなくなり、頭がしっかり回らずに、何もできなくなってしまうということから、無意識に、石ころという存在を無視してもいいという理論にたどりついたのではないだろうか?」
 それができるのは人間だけだ。
 それが、思考能力というもので、他の動物の行動というのは、あくまでも、
「本能」
 というものよるものだ。
 ただこれも、
「人間が、人間の立場から見た」
 というもので、これこそ。
「人間のエゴ」
 であったり、
「人間の傲慢さ」
 ということになるのではないだろうか?
 目の前にあるものとして、それが見えていないという感覚は、
「慣れ」
 というものが一番影響しているものではないか?
 とも考えられるのではないだろうか?
 確かに、目の前にあるものとして、
「見えているはずのものが見えていない」
 というのは、
「目の錯覚」
 というものを呼ぶといってもいいだろう。
 しかし、それが本当に見えてはいるものであるにも関わらず、
「つまずいてしまう原因」
 となったり、逆に、見えていないにも関わらず、
「つまずかずに前に進める」
 ということが、無意識にできているという、、まったく正反対の出来事ができているということから考えて、
「人間の慣れというものは、錯覚に勝るものなのではないだろうか?」
 と考えることもできるというものである。
 そんな中において、このストーカー犯罪において、被害者である女性が刺されたというのを聞いた彼女の知人で、
「最初、すぐには信じない」
 という人が複数いた。
 その人たちは、彼女が、
「無抵抗だった」
 ということを聴いて、ビックリしていたのだ。
 というのは、被害者である彼女、名前を永野静香という。
「永野さんが、帰宅途中だと思われますが、刺されて殺されました」
 というような話をすると、
「彼女がですか?」
 というのだった。
「ええ」
 と警察がいうと、
「彼女が、用心深い方なので、そう簡単にはいかないと思うんですけどね」
 という人が複数いたということだ。
「用心深くても、不意に襲ってくれば、十分にありえることですけどね」
 というと、
「彼女今までに、何度か命の危険に晒されたことがあったんです。一番ひどかったのは、工事現場の近くを通りかかった時、上から鉄骨のようなものが落ちてきたことがあったんです。その時、彼女は不意に立ち止まって後ろを見たんです。その時、目の前に鉄骨が落ちてきたということなんですが、彼女にいうと、何か、虫の知らせのようなものがあったのか、後ろが気になって振り向いたということなんですよ」
 という、
「ということは、彼女が立ち止まらなければ?」
「はい、確実に下敷きになっていたということになりますね」
 という。
「霊感か何かなんでしょうか?」
「ハッキリは分かりませんが、それからも、そこまで危ないことはないんですが、彼女が何かに気が付いた時、うまく危険を察知できるというような力が身についているようなんですよ。だから、彼女に限って、そういうことがあったというのは、信じられないんですよね」
作品名:黒歴史 作家名:森本晃次