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黒歴史

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 前述のように、時代ごとに歴史解釈が変わってくるということで、
「しかも、答えを出すはずの歴史というのは、どこを刻めばいいというのか?」
 ということになる。
 つまりは、
「どこを切っても金太郎」
 といわれる金太郎飴のように、刻む場所がどこなのか?」
 ということになるのだ。
 金太郎飴というのは。
「どこを切っても同じ顔」
 なのである。
 これも、最低でも2回、つまりは、複数回切らないと、
「切ったところが同じかどうか?」
 という判断はつかないといえるだろう。
 しかも、2度同じであっても、
「すべてが同じだ」
 ということを証明できるわけではない。
 何度も切ることで、どんどん確率が高くなっていくことは間違いないが、それは絶対に100になることはない。
 つまり、どんなに切っても出てくるものは、
「限りなく100に近い」
 というものでしかない。
 ということだ。
 つまりは、ここでいう100というのは、
「無限という言葉と同意語だ」
 ということの証明となるに違いない。
 これは、
「合わせ鏡」
 であったり、
「マトリョシカ人形」
 というようなものと、
「逆の発想」
 ということになるのではないだろうか?
「合わせ鏡」
 というのは、
「前後に鏡を置いて、その鏡に映っているものは、誰もが考えるように、自分がいるだろう。そして、その後ろには、こちらを向いた鏡があり、その鏡の中に、少し小さい自分の後姿が写っている。そこにはさらに……」
 ということで、要するに、無限に写る自分が、正面と後ろ姿が、どんどん小さくなって、写り続けるというものである。
 これは、どんどん小さくはなっていくが、
「絶対にゼロになることのない」
 言い換えれば、
「限りなくゼロに近い」
 というものになる。
 この発想が、実は、
「無限というものの証明だ」
 といえるのではないだろうか?
 どんなに無限であろうとも、その先に見えているものは、
「ゼロとなって消えるということはない」
 ということなのだ。
 そして、この場合も、
「100になってしまうち、そこで終わってしまう」
 ということで、絶対に100にならないようになっている。それが、
「金太郎飴」
 のような、
「中が見えないものを探ろうとするというのは、どんなに切っても、100ということはないというような発想から、無限でしかない」
 ということを考えると、
「歴史の答え」
 という見えないものを無理に見ようとすると、おとぎ話でよくあるような、
「見るなのタブーというものを思わせるに違いない」
 ということになるというのだ。
「見るなのタブー」
 というのは、
「見てはいけない」
「開けてはいけない」
 と言われる、禁止するものに触れることで、
「タブーを破った」
 ということで、どのような処罰があるか分からない。しかもその処罰というのは、あまりにも理不尽ではあるが、それは覚悟しないといけないという教訓であるというような戒めということである。
 しかし、この、
「見るなのタブー」
 というものこそ、
「歴史が出してくれると言われる答え」
 なのではないだろうか?
 歴史が出してくれるといっていた答えを、
「正しいものだ」
 と考えることはできるだろう。
 それが、決して、
「自分たちに都合のいいものだ」
 という考えは、傲慢だといえるのではないだろうか?
「226」
 においての、
「歴史が答えを出してくれる」
 というのは、上官が、原隊に帰る部下に対して贈った、
「最後の言葉」
 であり、勝手に群を動かしたことでの、部下に対して、
「これから死んでいくものとしての、遺言」
 といえるのではないだろうか。
 実際にその青年将校は、自殺をしている。
 それを考えると、
「欺瞞であったとしても、それはついていいウソだったのかも知れない」
 といえるだろう。
 何も、
「ウソというのは、すべてが悪いというわけではない。悪いウソというのは、自分のためにつくウソで、悪くないウソというのは、相手のためを思ってつくウソなのではないだろうか?」
 と考えられる。
 ただここでは、
「悪くないウソ」
 という言い方をしたわけで、
「いいウソとは言っていない」
 つまり、
「ウソが悪いことには変わりはないが、決してついていいウソというものは存在しないのだ」
 ということだ。
 そもそも、
「ウソをつく」
 というのは、
「ウソをつかなければいけないような何が原因がある」
 というわけである。
 それを引き起こした原因が、自分にあろうがなかろうが、その原因のためにウソをつくことになる。
 つまりは、
「悪いウソというのは、自分に原因がある」
 という場合で、
「自分に原因がない場合でも、それは、悪くないというレベルのもので、決していいウソというわけではない」
 ということだ。
 それだけ、人間には、
「犯してはならない領域」
 というものがあり、それを守らなければ、ウソをついてしまうということになるということであろう。
「ウソをつくと地獄に落ちる」
 などと、子供の頃に、戒めとして言われていたことであるが、
「地獄に落ちる」
 ということまでは、ないのかも知れないが、それだけの、
「戒めを破った」
 ということは、許されることではないということで、
「そのどこにあるのか、どれほどのものなのか?」
 ということが漠然としている地獄というものに落ちるということだ。
「その正体が分からない」
 ということほど、恐ろしいものはない。
 それを考えると、
「地獄に落ちる」
 ということがどういうことなのかということになると、
「地獄には鬼がいて、それこそ、地獄の苦しみというものを味わう」
 と言われるが、その正体は誰にも分かるものではないということだ。
 だからこそ、
「この世には、限りなくゼロであったり100に近い」
 という存在があり、それが、
「想像を無限にする」
 という、地獄というものも存在しえるということになるのだろう。
 それを思えば、
「宗教の存在」
 というのも、あながち無理のないことなのかも知れないということになるのであろう。

                 男女関係のもつれ

 そんな宗教にすがるという考えは、
「太古の昔からあったものだ」
 もっといえば、
「世界の歴史というのは、宗教の歴史」
 といってもいいかも知れない。
 それはまるで、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 ということになるのだろう。
 どちらが先なのかということは、問題ではない。
「問題とするのは、理論的に矛盾しているものを、矛盾のないように考えることが、無限というものを、限りあるものにする」
 ということになるからだろう。
「無限」
 というものが、いいのか悪いのか、これは、いろいろ考えられるだろう。
 たとえば、
「不老不死」
 という考えがあるが、これは、パッと考えれば、
「これ以上のほしいものはないだろう」
 と思うだろう。
 実際に、
「若いままで、そして死ぬことはない」
 ということだから、
「望んでも望めないものだ」
 と考えるからこそ、
「永遠の望みだ」
作品名:黒歴史 作家名:森本晃次