悠々日和キャンピングカーの旅:⑬富士山五合目とその周辺
■10/8(旅の初日):自宅 ⇒ 山梨県南都留郡鳴沢村(道の駅「なるさわ」)
【走ったルート】 自宅の最寄りのICから東名、新東名、東富士五湖道路、富士スバルラインを乗り継ぎ、富士山五合目へ。そこでの散策後に下山して、河口湖周辺で昼食。その後は西湖の湖岸の温泉に漬かり、道の駅「なるさわ」で車中泊。【走行距離:257km】
【忘れられない出来事】 富士山の五合目の佇まいが世界中の人たちに開かれた国際的な雰囲気だったこと。そして、そこにいる人たちの服装から、「観光で、ここがゴールの人」と「登山で、ここがスタートの人」に分類できるのが面白く、彼らを暫く眺めていた。
【旅の内容】 富士山五合目には早い時間に到着したかったため、6時に起床、7時に自宅を出発し、最寄りのICから東名高速に乗った。
どうしようかと少し迷ったが、富士ICから朝霧高原経由の富士山の西山麓を北上するのではなく、東側への高速や自動車専用道路を乗り継ぐルートの方が早く着くことができると判断した。
具体的には、東名で富士山の南側をぐるりと回り、御殿場JCTから新東名へ、新御殿場JCTから仁杉(ひとすぎ)JCT、そして御殿場バイパスを走り、東富士五湖道路には南端の須走(すばしり)ICから乗り込み、静岡県と山梨県の県境を経て、富士吉田ICで下りて、すぐの富士スバルラインに入った。そこは、急勾配が続く富士山の登山道で、ゆっくりと、ゆっくりと上っていった。
自宅から3時間弱で、富士山の山梨県側の五合目に到着。そんなに早くたどり着いたことに、ふたりとも驚いた。
以上は、自宅から富士山五合目までの走ったルートの記述で、紀行文らしくないため、以下、自宅から見える富士山と車窓風景の中の富士山について、書き進めることにする。
自宅から富士山は直線で約120kmの距離にあり、ちょうど北東の方角だ。
静岡県西部は以前、遠江(とおとうみ)と呼ばれていた地域で、その北側には、南アルプスの南麓とそれに連なる山々が横たわり、そこは、遠江の北に当たるため「北遠(ほくえん)の山々」と呼ばれ、その東端の裾野と、遠江の東側の小笠山の北端の裾野が交わる低い部分に、大きくはないが、いつも富士山が鎮座している。
とは言っても、湿度の高い夏は霞んでいてあまり見えず、気温が次第に下がる秋から冬にかけて良く見える。
晩秋の頃、富士山に降り積もった雪は見えるものの、これまでに、紅葉を見た記憶がない。望遠鏡を使えば見えるのかもしれないが、視力1.0の私の肉眼では無理だ。
次は、車窓風景の中の富士山についてだが、東名高速の走行中に見えると、妻も私も、日頃とは違って、「見て、見て、あれ富士山」と、自宅から見える富士山より少し大きいからなのだろう、興奮気味に反応した。以下、車窓風景の富士山を順次紹介する。
今日、最初に富士山が見えたのは、東名の日本坂トンネルを抜けた先の東名安倍川橋の手前からだった。
静岡市街の東側の、名称は知らないが、身延山地から連なる南側の山々を従えているような富士山が見えた。駿府城の家康公も同じ景色を見ていたことを思うと感慨深い。やがて清水港に面した興津(おきつ)に向かうあたりで富士山が見えなくなった。
次は、駿河湾を真横に見る由比(ゆい)の海岸からの富士山だ。
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次の由比」に描かれている富士山は、薩埵峠(さったとうげ)からの景色なので、かなりの大きさだが、東名からは、薩埵峠をトンネルで抜けてから駿河湾の上を走るときに見えるため、海に迫った山々の上に、山頂あたりが見えた。
その次に見えた富士山は大きく、裾野から山頂までが見える絶景だ。
その場所は、道の駅「富士川楽座」を兼ねる富士川SAの先の東名富士川橋を渡るあたりで、多くの人がその景色を知っているため、また会えたねという感覚が強い場所だろう。
また、富士川の橋梁を走る新幹線の姿を手前に入れ、雪をたたえた富士山の構図は皆が知っている写真だ。
そして、富士山麓に広がる富士市内には多くの製紙工場が立ち並び、その高い煙突からたなびく白い煙が見えてきた。これはいつも、富士山とのセットの景色だ。
やがて東名は富士山の南東に位置する愛鷹山(あしたかやま)の麓をぐるりと回った時、富士山は雲で隠れてしまった。
この紀行文を書いている今、かなり恥ずかしい話だが、私の大きな誤解に気付いた。
それは、「まさかりかついだ金太郎 熊に跨りお馬の稽古」で知られた童謡「金太郎」の歌詞の中の「足柄山(あしがらやま)の金太郎」がいつの間にか、私の中では、「愛鷹山(あしたかやま)の金太郎」に変わっていたことだ。その理由についてはよく分からないが、いつの間にかに、そうなっていた。
なお、足柄山は、神奈川県と静岡県の県境にある金時山(きんときやま:箱根外輪山の最高峰で1,212m)から足柄山地の足柄峠にかけての山々の呼称であり、単独の峰は存在しない。
ちなみに、金太郎のことを「熊と相撲をした元気な子供」くらいしか知らなかったので、ちょっと調べたところ、時は平安時代、足柄峠にさしかかった源頼光と出会った金太郎は、その力量が認められて家来となった後に、名前を坂田金時と改名。
京にのぼってからは頼光四天王のひとりになってからは、丹波の国の大江山(現在の京都府福知山市)に住む鬼の頭目の、都に来ては若い男女を誘拐するなどの悪事をなしていた酒呑童子を退治したとのことだった。
話を金太郎から旅の話に戻そう。
東名は御殿場に向かって標高を上げていき、車窓から富士山が見えるようになるが、東富士五湖道路に入ると、左前方に、くっきりと、はっきりと大きな富士山が近付いてきた。山頂付近にはまだ冠雪はなかったが、まもなく初雪のニュースを聞くことになるのだろう。
私は「ジル」を運転しているので、その富士山の写真を妻に撮ってもらったが、道路の照明のポールが富士山の手前に立っている写真になっていた。
そこで、さらに何枚か写真を撮ってもらったが、今度は、道路脇の案内標識のポールや沿道の木々で富士山が隠れている写真ばかりで、偶然にしても、これだけダメ写真が続くとは、二人して大笑いしてしまった。
そんな時、ふたり旅はいいなあと思った。
急勾配の富士スバルラインを上り始めると、富士山全体の姿は見えなくなり、時折、木々の間から山頂が見えた。
五合目近くまでは、沿道にはまだ晩夏色の木々が多く、紅葉はわずかばかりで、その見頃はもう少し先のようだ。やがて、五合目の駐車場に到着した。
まだ時間が早いのか、駐車場はガラガラで、どこにでも停めることができた。
「ジル」を停めた近くのクルマから降りてきた若い男性たちが熊本弁で会話している。
私の妻は熊本出身で、私は大学時代に熊本にいたことから、その方言やイントネーションが懐かしく、思わず声を掛けてしまった。彼らは熊本市内から来た人たちで、少しばかり楽しい会話になった。最後に一緒に写真を撮った。
ここまでの半袖・半ズボン姿は、五合目の日向ではちょうど良いのだが、ここの気温と風の状況ではギリギリのレベルで、日陰では寒そうだ。そこで、薄手のジャンパーを持って行くことにした。なお、周囲の人たちは完全に秋の服装だった。
作品名:悠々日和キャンピングカーの旅:⑬富士山五合目とその周辺 作家名:静岡のとみちゃん