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犯罪という生き物

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 という仕事なのだということなのかも知れない。
 かすみは、就活では、
「そういう会社の存在は分かっていたので、無理にそういう会社を狙う」
 ということはしなかった。
 確かに、就活には、それなりに苦労もしたし、なかなか内定がもらえないという時期は、精神的にもきつかったのだった。
 だが、面白いもので、
「ひとつ内定をもらえると、そこから先は、数珠繋ぎ状態で、結構内定がもらえたりした」
 というのは、
「企業の中には、応募に対して募集があまりにも多くて、選考するのに、かなりのそぎ落としが必要だった」
 ということもあるだろうが、中には、
「そぎ落としすぎて、いつも人数が足らないので、第二次選考という形」
 言い方を変えると、
「敗者復活戦」
 のような形で、一度はその年の就活を終えたような企業も、
「第二次募集」
 というものをしているというところもないわけではなかった。
 ただ、その場合は、オープンにはしていない。
 実際の就職戦線においてそれは、
「法律違反ということではないが、規律を守れない」
 ということで、
「タブーだ」
 ということになるだろう。
 だから、第二次募集というのは、
「学閥のある大学の就職センターのようなところに、声を掛けておいて、大学から、推薦してもらう」
 という形のシステムを取っていた。
 ここでも、もちろん、フリーパスというわけにもいかず、新たに、
「就活」
 ということになるだろう。
 ただし、この場合は、第一次で不合格になった人は、ここでは、
「ご遠慮いただく」
 ということになるであろう。
 それを考えると。
「就職活動」
 というものが、ある意味では、
「大変だ」
 ということになるのだろうが、逆に焦る必要はないということで、
「第二次」
 というのもある。
 ということを知っていれば、気楽にできると考えている人もいるだろう。
 だからと言って、いつも簡単に考えていると、どこかに落とし穴というのはあるというもので、その発想は、
「これが、コールではなく、出発点だ」
 ということになるというのを忘れてはいけないということだ。
 確かに、
「学生」
 という立場のゴールではあるが、もっと厳しい社会人というのは、自分でも、
「ずっと考えていたことではない」
 ということで、自覚がないだけに、就職してからは、
「一年生の新人だ」
 ということを忘れてはいけないだろう。
 かすみは、就活には、そこまで苦労はしなかった。
 うまく乗り切ることができて、就職のために費やした心労も、そこまで厳しいものではなかったと思っている。
 ただ、実際に、内定がなかなかもらえず、
「何とかなる」
 とは思いながらも、最終的に就職できたということで、
「ホット胸をなでおろした」
 ということになるのである。
 それは、
「高校の時に味わった、大学事件の厳しさ」
 とはまた違ったものであった。
 高校時代には、
「勉強をするのはきついが、やればやっただけの努力が報われる」
 というものが受験であり、就職活動というものは、
「頑張ることは当たり前だが、相手が何を求めているか?」
 ということをこちらでしっかり把握することで、
「合否が決まる」
 といってもいいだろう。
 正直、
「就職活動というのは、情報戦だ」
 といってもいい。
 これは、公開されている情報以外に、就活生同士でしか知りえない情報というものが存在していて、それがいかに活動できるかということに掛かってきているといってもいいんのではないだろうか?
 それを考えると。
「高校時代と違って、大学というところでは、そういうテクニックを身に着けるためのところであり、ある意味、勉強だけが大切なことではない」
 といえるだろう。
 新しく入った会社では、最初からあまりうまくいかなかったというのが、本音であった。
 というのも、最初に躓いたのは、
「五月病」
 というものに引っかかったということが最初だった。
 そもそも、
「五月病」
 というものは、話には聞いていたが、実際にどういうものなのかということは知らなかった。
 特に、
「孤独で寂しい」
 ということをそれまでに感じたというのは、
「中学時代が最後だった」
 という意識をちゃんと持っていたからだ。
 中学時代の途中から、
「孤独というのも悪くない」
 と少しだけ感じていた。
 というのも、
「中学時代に、一度引きこもりのようなことになったことがあった」
 というのは、
「苛めにあったから」
 というのは、引きこもりの一番の理由であろうが、かすみの場合はそうではなかかった。
「理由は分からないが、何か寂しいという思いが強い」
 というところから入ったもので、
 学校から帰って、一人になる。
 それまで一人でいることで、
「部屋が狭くて仕方がない」
 と思っていたが、実際には、
「こんなに私の部屋は広かったのかしら?」
 と思ったことであった。
 確かに部屋が広いと感じたのは、
「明るさの問題」
 といってもいいかも知れない。
 部屋にいて寂しさを感じたのは、
「部屋の中央での明るさが、部屋の隅々まで届いていない」
 という感覚からだったような気がする。
 しかし、途中から、
「部屋の奥の方まで、明かりが行き届いている」
 という感覚から、
「端の方まで、暖かさが染みているようだ」
 と感じたことから、部屋を広く感じるようになった。
 暗い部分があっても、そこには、それなりの広さを感じていたのだが、それは、薄暗さから、
「無限に見える」
 という感覚からであった。
 しかし、実際には、そういう感覚ではなく、
「無限に見えるものが、実は温度差を生んでいた」
 と感じると、そこに、
「冷たさが、硬直した空気を感じさせる」
 ということで、距離感がつかめなくなるのだった。
「距離感がつかめないというものが、そのまま無限というものを醸しだすものではない」
 ということを感じさせる。
 そこには、
「見えないことへの恐怖」
 というものが、いかに、気持ち悪さを演出するか?
 ということで、まるで、
「底なし沼」
 というようなものを感じるといってもいいだろう。
「底なし沼というものは、考えてみれば、理屈に合わないもの」
 といってもいいかも知れない。
「底がない」
 ということで、
「すべてが、奈落の底に落ち込んでしまう」
 ということであれば、そもそも、沼に張っている水というものが、どこで引っかかっているのか?
 という単純な疑問に、まったく回答していないということになるのではないだろうか?
 ということを考えると、
「無限というものが、果たして存在するのであろうか?」
 ということを考えさせるということになるのだ。
 たとえば、
「合わせ鏡」
 というものや、
「マトリョシカ人形」
 というものを考えたとして、合わせ鏡というのは、
「自分を中央において、前後に鏡を置いた時、鏡に映った自分の姿の後ろに、後ろから自分を映した姿が映っている」
 ということから、
「さらに、その後ろに、今度は反対側から映る自分」
 という姿が映っているということになり、
「どこまでも続く。自分の姿」
作品名:犯罪という生き物 作家名:森本晃次