犯罪という生き物
「そもそも太郎が箱を開けてしまった」
というのは、
「帰ってみると、地上は数百年先に進んでいて、知らない世界になっていた」
ということであった。
ここで重要なのは、
「自分が知っている人」
あるいは。
「自分を知っている人が誰もいない世界になっていた」
ということであった。
それが、
「しょうがない」
ということだったのか、
「竜宮城から地上に帰ると、竜宮城の秘密を知られないようにするための、一つの方法なのかも知れない」
ということなのかとも考えられる。
方法としては、他にもあるだろう。
「地上に返す時、記憶を消してしまう」
という方法であり、逆に、こちらの方が、
「一般的だ」
といえるかも知れない。
しかし、そこまでしなかったのは、この物語が、
「おとぎ話」
という、
「童話だ」
ということからではないだろうか?
せめて、
「老人にする」
ということにしておいて、ただし、寓話として、
「見るなのタブー」
に準拠するとすれば、
「ハッピーエンド」
ということにはできないというような理屈が成り立つのかも知れない。
さらに、この話に含みがあるとすると、キーとなるのは、
「自分を知っている人、自分が知っている人が誰もいない」
ということになるのであった。
この場合は、
「竜宮城側の、いや、乙姫側の都合があるのかも知れない」
ということも言えるだろう。
というのは、
「本来なら記憶を消したい」
と思うところであるが、乙姫の気持ちとして、
「自分を忘れられたくない」
ということから、地上に帰った太郎が、失望してしまって、そのまま何十年も生きなければいけないというような、
「生き地獄」
と味わうのだとすれば、
「せめて、おじいさんにしてしまうことで、その苦しみをなるべく短くしてあげようという意志があったのではないか?」
ということである。
ただこの場合は、
「乙姫のエゴ」
ということで、
「わがままだ」
ということになる。
好きになった相手に忘れられたくないということで、記憶を消さないということになれば、それは、
「彼女の勝手な理屈」
ということでしかないだろう。
もちろん、これは、
「読んだ側の勝手な解釈だ」
ということになるが、
そもそも、小説であったり、物語というのは、作者にもそれなりの意図があって書いているということであろうが、解釈するのは、読者がそれぞれにすることであって、大筋はあっても、解釈はいろいろだということである。
それを考えると、
「浦島太郎」
の話は、あくまでも、
「見るなのタブー」
ということに対しての、戒めの話だということになるのだろう。
そういう意味で、
「おとぎ話」
というものは、
「何も、すべてが、お花畑的発想ではない」
ということが言えるだろう。
それだけ、
「世の中は甘いものではない」
という教訓が、おとぎ話というものだということになれば、
「見るなのタブーが、世界各国の寓話に残っている」
というのも当たり前ということではないだろうか?
それを考えると、
「お花畑的発想」
でずっと生きていくことはできないといってもいいだろう。
そういう意味では、
「大学受験」
という難関を乗り越えて掴んだ大学生活であるが、それを、
「ご褒美」
ということで、
「そこが終点」
と考えるのは、世の中では、
「甘い考え」
ということになるだろう。
たとえば、芸術家になりたいと思ったとすれば、今の世の中であれば、
「何かの賞というものに応募して、賞を取る」
というのが、一番の近道ということになるだろう。
「芸術家への登竜門」
などと言われているコンテストであったり、コンクールのようなものがあるではないだろうか?
それを突破することで、
「やっと、芸術家になることができた」
ということになるわけで、これだけを聴くと、確かに、
「ゴールのような気がする」
というものだが、そうではない。
「プロになる」
ということを最終目的に掲げてしまっているのであれば、確かにそこで終わりだといってもいいだろう。
しかし、実際には、
「プロになってから」
というのが大変なのであり、
「受賞作品は確かに賞賛され、そこで、いろいろなメディアに紹介されたりして、そこかの会社と契約を結ぶというプロになる」
ということだ。
しかし、契約した会社には、他に、たくさんの、
「先人」
というものがいるわけで、あくまでも、まだ新人というのは、学校であればまだ一年生ということで。そこから先が、
「プロとしてのスタートラインだ」
ということである。
もっといえば、
「やっと受賞できた」
ということで満足してしまったり、
「受賞するまでに、自分の生気を使い果たした」
という感覚になることで、出版社とすれば、
「受賞作の次回作は、さらにいい作品ではないといけない」
と思うのだった。
厳しいことは分かっているが、なぜそういうシビアなことになるのかというと、
「読者が望むから」
ということである。
出版社とすれば、
「新進気鋭新人による問題作」
というような宣伝文句をつけて、彼が、
「賞の受賞者である」
ということを前面に押し出して、宣伝しているのだから、
「読んでみたけど大したことない」
などいうレビューでも書かれると、作家が、
「自信を無くす」
という程度では済まない。
出版社の方が、溜まったものではないと感じるだろう。
まったく宣伝に敵わないだけの作品であれば、本屋から、どんどん返品となり、作家も当然自信を失い、立ち直れないということもあるだろう。
それが、
「スタートラインであるのに、そこで息切れしてしまう」
ということの末路であろう。
だから、
「小説家や、漫画家のタマゴと言われる人がたくさんいる」
ということになるのだろう。
実際に、たくさんの芸術家で、
「新人賞」
を受賞する人がたくさんいるのに、実際に、
「プロの小説家」
として活躍できている人は、一握りだということになるのだ。
「まるで就活での内定者のようだ」
ということで、業種によっては、毎年、かなりの数の新入社員を取っているところがたくさんある。
何も知らずに、
「この業界だったら、就職は簡単だ」
ということで考えていると、実際には、
「辞める人を見越して、雇っている」
ということになるかも知れない。
というのも、
「毎年1年目で残る社員は、1,2名しかいない」
ということで、
「じゃあ、毎年どれくらいの社員を入れるんだ?」
ということになると、
「10人以上」
ということになると、気が付けば、
「残るのは、1割程度」
ということになるだろう。
だから、
「雇う方も、それを見越して取っている」
ということで、
「たくさん毎年取っているから」
ということで、確かに内定はもらいやすいかも、知れないが、こういう業界は、
「入ってから、ふるいに掛けられる」
ということになるのか、それとも、
「それだけ、覚えることが大変であったり、ストレスを抱えて、病んでしまう」