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犯罪という生き物

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 と考えた。
 まるで、レジャーランドといってもいいくらいなのは、
「自分が大学生という肩書を持った」
 ということで感じるものだった。
 とにかく、
「大学受験という難関を乗り越えて大学生になった」
 ということは、
「人生におけるご褒美」
 というように思えたのだ。
 それが、
「大学受験を乗り越える」
 ということで、
「本来であれば、入試突破というのは、大学生のスタートラインだ」
 と思うのが当たり前なのだが、実際には、
「そこがゴール」
 ということで、大学時代には、段階があるということを感じ、
「最初の段階は、そのご褒美のために使う時間」
 ということであり、次の段階は、
「勉強にいそしむ」
 という時間なのではないかと思うのだった。
 かすみとすれば、大学に入ってから、
「彼氏がほしい」
 という感覚は、
「最優先だ」
 と思うようになっていた。
「中学、高校時代と、彼氏を作るのは、まだまだ先だ」
 と考えていたのだから、
「やっとその時が来た」
 と感じた。
 それに、
「大学に入学して、まわりの雰囲気に触発されたかのように、自分には、コミュ力が上がった」
 という意識を強く持てるようになった。
 それが、本当の力なのか、自分でも分からなかったが、少なくとも、
「大学生」
 という肩書は伊達ではないと思えるようになったのだ。
 そんな大学時代において、数人彼氏と呼ばれる人もできたのだが、なかなか交際としては続かない。
「何が悪いんだろう?」
 と考えるが、その答えが出ることはなかった。
 しいて言えば、
「お互いに、遊び感覚だ」
 と思っていることが原因なのかも知れない。
 もっとも、
「大学生なのだから、最初は遊び感覚」
 というくらいでないと、最初からぎこちなくて、お互いに相手に気を遣ってばかりだと、ろくなことはないということであろう。
 それを思えば、
「大学生の付き合い」
 というのは、前から考えていたよりも、よほど薄っぺらいもので、まるで、
「張りぼてのようではないか?」
 と思えるのだった。
 それこそ、父親が前に味わった、
「お見合いパーティでできたカップル」
 のようなものかも知れない。
 父親が感じたのは、
「形式的な関係」
 という、
「薄っぺらさ」
 というものであった。
 しかし、娘が感じたのは、
「大学生活」
 という甘いレールの上に敷かれた、
「形式的なもの」
 という感覚で、
「父親が感じたものは、社会のルール」
 というものの中で、さらに現実的な形式というものであるが、娘の方は、
「大学生という幻想の中に身を置いたことでの、形式的な付き合いということなので、社会全体という広いものではなく、大学生という幻想を見ているということ」
 であった。
 社会人としては、
「その限界というものが見えてきたことで、無限だと思っていたものが違って見えたことで、冷めて感じるようになった」
 ということが、
「お見合いパーティに行かなくなった理由かも知れない」
 といえる。
 しかし、娘の場合は、最初から、無限だという感覚はなく、大学生という幻想に抱かれたことで、次第に、
「無限に先がある」
 という幻想に抱かれてしまったことで、
「限界があるものを無限だ」
 と感じたことで、感覚がマヒしてしまったということでの思いから、
「何も、その人だけが男というわけではなく、もっとゆっくりと選ぶことで、最高の優良物件を探し当てる」
 と考えると、
「何も焦ることなんかないんだ」
 ということになるのであろう。

                 孤独と恐怖

 大学3年生まで、結局、
「付き合っては別れ」
 ということを数回繰り返しただけで、実際に、
「男性と付き合った」
 といえることができる相手がどれだけいたといえるのだろうか?
「長くて半年」
 その半年という人も、最後は、
「惰性とマンネリ化」
 ということで、別れたというよりも、
「自然消滅」
 と言った方がいいかも知れなかったのだ。
 しかし、かすみは、もう処女ではなかった。さすがに、大学生にもなれば、
「別に貞操を守りぬくなんて、考えられない」
 ということで、
「本当に好きになった相手としか、セックスはできない」
 という考えを持っているわけではなかった。
「大好きな人としかしない」
 というのは、まるで、
「おとぎ話の中のお話」
 のようではないか?
 と思えたのだ。
 いわゆる、
「お花畑のような話」
 ということで、
「そもそも、おとぎ話というのは、その結末がハッピーエンドというものは少ないかも知れない」
 といえるだろう。
「寓話」
 という言葉があるように、
「教訓めいた話」
 というものが結構多く、特に、よく言われているのが、
「見るなのタブー」
 というもので、これは、
「日本に限らず、聖書であったり、ギリシャ神話」
 というような、神話の世界からあったことだ。
 むしろ時代的には、
「おとぎ話」
 というものよりも、もっと古いものなので、
「それだけ、いろいろ派生しているものであろう」
 ということであった。
「ギリシャ神話」
 の中で、有名なものとしては、
「パンドラの匣」
 の話であろう。
 そもそも、ギリシャ神話というのは、聖書などと違って、有名な話がそんなに世間に普及しいるわけではないので、ピンとこないが、これが聖書となると、結構あったりする。
 パッと思いついただけで、
「アダムとイブ」
 という最初からである。
「禁断の果実」
 を食べてはいけないというのに、食べてしまったというところから始まり。
「ソドムとゴモラ」
 の話のように、
「決して振り向いてはいけない」
 というのに、振り向いてしまったことで砂になってしまったという話もあるではないか。
 日本のおとぎ話としては、
「決して見てはいけない」
 と言われたのに、中を覗くとツルが痛いという、
「ツルの恩返し」
 であったり、
「開けてはいけない」
 と言われて玉手箱を開けてしまった、
「浦島太郎」
 の話があるではないか。
 そんないろいろな話がある中で、少なくともそれらの話が、
「ハッピーエンドであるはずがない」
 といえるだろう。
 ただ、その中で、
「浦島太郎」
 の話だけが、不可解なのであった。
 そもそも、
「カメを助けたことで、そのお礼にと、竜宮城へ招かれたのではなかったか?」
 つまり、浦島太郎は、その時点までは、
「いいことをして、そのお礼をされた」
 ということで、ラストはハッピーエンドでなければいけないはずだ。
 しかし、実際には、ハッピーエンドどころか、
「開けてはいけない」
 と言われた玉手箱を開けてしまったことで、一気に転落することになる。
 という解釈になるだろう。
 しかしそうなのだろうか?
 というのは、実はこの話には続きがあり、
「太郎を好きになった乙姫が、カメになって地上にあがり、太郎はツルになり、二人は、永遠に幸せに暮らした」
 といいハッピーエンドな話なのだ。
 それが、なぜ、
「おじいさんになってしまった」
 というところで終わりということになるのだろうか?
 考えてみれば、
作品名:犯罪という生き物 作家名:森本晃次