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犯罪という生き物

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 警察というのは、
「市民の強力があればこそ、願人逮捕ということもできるというもので、善良な市民を敵にまわすわけにもいかない」
 ということになるのだ。
 だから、
「本当にいいのか?」
 と思いながら、もう一人の勤務している人が、目撃証言の事情を聴いている間に、自分は、容疑者の事情を聴くことにしたのであっら。
「俺はやっていない」
 と訴える。
 もちろん、ここで、
「俺がやった」
 というのは、簡単に罪を認めることになるということで、明らかにやったということだろう。
 それを分かっているだけに、
「罪を最初から認めれば、情状酌量ということもあるだろう」
 と計算する人もいるということだからだ。
 しかし、
「犯行をかたくなに否定する」
 という人間への判断が一番難しいのだ。
「本当にやっていない」
 ということであれば、必至になって抵抗するのは当たり前のことである。
 しかし、それを
「ウソで固める」
 ということに関して、長けているという人も中にはいたりもする。
 それは、
「自分を悲劇の主人公だ」
 ということを日ごろから意識して考えている人であった。
 それは、
「その人がそう考えるからだ」
 と考えるよりも、
「世間がそういう人間を作った」
 といっても過言ではないと感じるからであった。
 というのも、
「今の世の中、理不尽で、いつ自分に理不尽な仕打ちが襲い掛かってくるとも限らない」
 ということで、
「他人は信用できない」
 と思う人も多いだろう。
 特に、
「信用したことで裏切られ、それが、トラウマとなって残ってしまい、苦しむことになる」
 ということを考えれば、
「そもそも、人なんか信用したからこんな目に遭うんだ」
 と思うと、
「人を信じて裏切られるよりも、最初から、人なんて信じない方がいいんだ」
 と考えるようになる。
 特に、警察官としては、実に不謹慎なことであるが、もし、自分が、何もしていないのに、勝手に犯人にされて突き出されてしまって、
「言い訳も何も通用しない」
 ということになれば、
「こいつら、本当に見たのかよ。ただの偽善で、自分たちが一人の人間の運命を変えようとしているなんてまったく感じてないんだ」
 と思うことだろう。
 犯人というものが、
「動機があって、行うものが犯罪だ」
 ということになれば、
「果たして、痴漢に動機なんかあるのだろうか?」
 という意味で、本当に計画してのことであったり、常習犯などは、取り締まる必要があるが、その裏には、必ず、
「冤罪の危険性というものが孕んでいる」
 ということを考えなければいけないということだ。
 それこそが、
「事実は一つだが、真実というものは一つだと限らない」
 と言われるゆえんなのではないだろうか?
 学生時代、刑事ドラマで見た中で。
「痴漢犯罪が、結局冤罪だった」
 というのが描かれていたのを見て。
「冤罪って恐ろしい」
 と思ったのだが、同時に、
「善意の第三者」
 という名目で、
「一人が英雄になるには、冤罪という形での生贄を必要とするんだ」
 ということを思い知った気がしたのだ。

                 真実と「真相

 彼女がストーカーに追われているということを、まわりは知っている人がいなかったので、
「彼女を殺害する動機が分からない」
 と捜査本部は考えてしまっていたが、それが急転直下という形になったのは、事件が起こって一週間ほどしてから、ある女性が訊ねてきてからだった。
 彼女は、最初、
「名乗り出るつもりはなかった」
 ということであったが、警察がまったく事件の本質をつかんでいないと思えたので、名乗り出たのだということだと思えると、桜井刑事も、さすがに今回の事件に対して、
「どう考えればいいのか?」
 ということを考えされらてしまったのだ。
 今回の事件というのは、確かに最初から、何か、分かりにくいところがあった。
 犯人は、確かに、防犯カメラには映っていて、被害者との口論の末に刺されている。
 しかも、刺したということは、
「凶器を持っていた」
 ということなので、普通に考えれば、
「殺意があった」
 と思ってもいいだろう。
 しかし、彼女が、
「男性に殺されるような恨みを買っていたのか?」
 ということになると、まわりの証言は、
「そこまで親しい人はいない」
 ということであった。
 そして、防犯カメラの映像を拡大して写真にして、知人に見せると、誰もが、
「こんな人知らない」
 ということになるのだ。
 桜井刑事がもっとも得意とする、
「事件解決の推理」
 ということのためにそろえるべき証言が、中途半端にしか得られずに、そして、真実というものが、
「衝動殺人ではないか?」
 という方向に向けるしかないほどのものでしかなかったのだ。
 しかし、そんな時に出てきた、
「別の証言は、少なからず、捜査本部に、衝撃を与えた」
 といってもいいだろう。
 しかし、それは、
「衝撃というよりも、刺激だ」
 といった方がいいかも知れない。
 というのも、桜井刑事は、自分の中で、
「五里霧中という言葉があるが、霧の中をさまよっているような気がしていた」
 というのだ。
 それは、
「霧の中をさまようというのは、見えていないという感覚だけではなく。映る影のでき方などが、曖昧で、しかも大きく見えたりすることで、大いなる錯覚を与えるものではないだろうか?」
 と感じさせることからであった。
 だから、大きくなるという感覚は、
「錯覚を多くする」
 という意味もあれば、
「解釈を増やす」
 ということでもある。
 つまりは、錯覚と解釈という、それぞれ相対するものが、
「それぞれが大きくなると、反映される反対側も大きくなる」
 という感覚を覚えさせるというものであった。
 それが、
「事実は一つしかないのに、その状況から、真実は一つではない」
 ということを、改めて感じさせるということになるのだろう。
 しかも、桜井の推理には欠点がある。
 というのは、
「疑い始めるときりがない」
 ということであった。
 推理が、最初から最後までうまくつながった時は、
「切れ味鋭い名推理」
 というものが展開されるのであるが、それが途中で少しでもブレてしまうと、
「気が付けば、まったく違ったところに向いてしまっていた」
 ということになってしまう。
 それを考えると、
「桜井刑事の推理が、時々切れ味鋭く展開される」
 ということで、確率という意味で、捜査本部の想定内なので、
「名探偵」
 ともてはやされることになっている。
 しかし、桜井刑事は、欲がないわけではなく、本人とすれば、
「毎回、名推理を発揮したい」
 と考えるのは、
「警察官という仕事に誇りを感じている桜井刑事としては、当たり前のことのように思っていた」
 ということである。
 それがいつも発揮できないのは、それが、なかなかできないということでの、
「ジレンマ」
 というものがあるからであろう。
 これまでの事件と考え合わせてみると、
「やはり、証言から一つの真実を導き出すには、あまりにも、得られる証言に信憑性はない」
作品名:犯罪という生き物 作家名:森本晃次