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三つのわだかまり

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 と言われるかも知れないが、本人は捕まるつもりなど欠片もなかったのだから、
「他人事」
 のように考えるのも無理もないことだろう。
 それを、
「不真面目だ」
 というのは、当たり前なのかも知れないが、そこまで店長ができるものかというのは微妙なところだ。
 確かに、犯罪を犯した人間と、被害にあった人間との間の対面なので、文句の一つもいいたいのは当然だ。
 しかし、そこに、私情が挟まってしまっては、話が進まなかったりするだろう。
 捕まった方も、一方的に責め立てられれば、口をつぐんでしまうというのも、無理もないことであろう。
 ゆっくりと、説得する感じで話をすれば、素直になるかも知れないものを、一方的に追及すれば、せっかく落ち着こうとしている方からすれば、どうしようもないという精神状態になってしまうことだろう。
 それを考えると、
「俺が悪いのか?」
 とは考えたとしても、それ以上は、
「何か理不尽さを感じる」
 ということで、何もできなくなるのではないか?
 と感じることだろう。
 万引き犯といっても、相手はまだ中学生。
 特に、
「思春期の真っただ中」
 ということを考えると、尋問する方も、気を遣わなければいけないだろう。
 もっといえば、
「自分が、少年くらいの年齢の時、どうだったか?」
 ということを思い出しながら話をしないといけないだろう。 
 ただ、店長の中学時代と今とでは、少し違っているかも知れない。
 さすがにそこまでは考慮できないので、自分の中学時代というのを思い出しながらの話になるのは致し方のないことだろう。
「そう思いながら、店長が話をしていたのか?」
 それは難しいところではないだろうか?
 しかも、店長の前に出てきた時、まるで、
「まな板の上の鯉」
 という状態であれば、
「最初に感じた感覚」
 というものが、ずっと最後まで抜けないということになる。
 徐々に、相手も気を遣ってくれているのであろうが、それが、少年の緊張感と、罪の意識にさいなまれるかのような、
「我に返る」
 という状態になって、
「事実を受け止める」
 という感覚になった時、自分の中で、
「甘かったんだろうな?」
 という反省をしているのであれば、店長が責め立てたとすれば、完全に逆効果だといえるのではないだろうか?
「少年としては、後悔はしたくないが、反省はする」
 という態度でいたのであれば、その態度がこの場合は、一番正解に近いのではないだろうか?
 それを考えると、
「少年を追い詰めてはいけない」
 と感じなければいけないのに、店長にそれができたかどうか、大きな問題だ。
 そもそも、
「警察に連絡した」
 ということが、下手をすれば、一番の間違いだったのかも知れない。
 来てくれたのが、佐久間巡査部長だったからよかったものの、
「警察の中には、公務員的に、相手の立場や考え方を無視して、決まったことを決まったようにするだけ」
 という男もいるのだ。
 そんなやつに任せてしまえば、ろくなことはないだろう。
 もっとも、最近の少年課であったり、生活安全課では、刑事課などと比べて、
「市民に寄り添う」
 という形の立場が一番求められるということなので、
「犯人であろうが、一番気を遣う」
 ということになるのだ。
 特に、相手は、
「自分が悪いことをしている」
 という意識がないままに、行動している人が比較的多いだろう。
 そんな相手を相手にするのだから、こちらが気を遣わないと、話が通じることもなく、
「交わることのない平行線」
 というものでしかなくなる。
 そして、そこに、
「無限」
 という発想が出てくれば、
「限りなくゼロに近い」
 ということになり、
「無限である以上、絶対にゼロにならないところで、永遠に続くもの」
 ということになるのである。
 それを考えると、
「警察という仕事。特に、市民と寄り添うような仕事」
 というのは、精神的なところで、気を付けなければいけないところが多いということになるだろう。
 何しろ、相手は、犯罪すれすれというところにいる場合が多い。
「犯罪者の道に足を、その後に踏み込むことになった」
 ということであれば、
「警察に責任というものはなかったのか?」
 ということになるのは、必至である。
 それを考えると、
「佐久間巡査部長のような人がもっと増えればいいのに」
 というほどの人物だということは、署内でも知られたことだったのだ。
 佐久間巡査部長も、
「卑怯なコウモリ」
 という話は知っていた。
 それが、
「イソップ寓話だ」
 ということまで知っていたかどうか分からなかったが、話の大筋は知っていた。
そんな中において、
「物語的には、当然といえば、当然のところがあるが、どうにも片手落ちの話だ」
 と考えていたようだ。
 これは、少年が考えていることと、おおむね似ているといってもいいだろう。
「この話は、コウモリ側からの話ではなく、そのほとんどは、鳥や獣側の話だ」
 ということであった。
 ということは、
「多数決といえるのではないか?」
 と思えたのだ。
 つまりは、
「一人の意見はどうでもよく、全体がどう考える? ということが優先される」
 という考えである。
 もちろん、それが、統制の取れた考えであり、一種の全体主義だといってもいいのかも知れない。
 実際に、
「統制が取れないとどうなるか?」
 ということは、国家などを統制している人には分かるというもので、民主主義であれば、それが、
「多数決」
 というものであり、そんな民主主義を否定する、
「社会主義」
 などであれば、
「権力によっての独裁で抑える」
 という考えである。
 これは、
「ファシズム」
 というものにも言えるのではないだろうか?
 特に、第一次大戦終了後の、イタリアやドイツにおいて、世界恐慌というものも重なることで、
「弱ければ滅びる」
 という、当たり前のことに気づいたということである。
 いわゆる、当時の世界は、
「戦争に負けた」
 ということで、勝者から、その罰を想像以上に与えられ、与える方からすれば、
「これで戦争を抑止することができる」 
 と考えたかも知れないが、それはあくまでの、
「勝者の理論」
 ということであり、戦争に負けるということは、
「勝者の理論で、敗者は押しつぶされ、滅亡しても仕方のないこと」
 ということになるのである。
 しかし、実際に、そこに国民は存在しているのであり、
「自分たちが何をしたんだ?」
 と考えれば、
「これほど理不尽なことはない」
 といえるだろう。
 どの国の国民も、
「国家が戦争を始めれば、国家のために、戦争勝利という目標に向かって邁進する」
 というのが当たり前のことであり、それが、
「愛国心」
 ということになるのだ。
「勝った負けた」
 というのは、最後のことであり、
「最後まで分からない」
 ということになるであろう。
 それを考えると、
「国家のために、勝利へのまい進を行った国民が罰を受ける」
 というのは無理強いではないか?
 ただ、この考え方こそ、
「連合国に押し付けられた民主主義」
 という考え方だ。
作品名:三つのわだかまり 作家名:森本晃次