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三つのわだかまり

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「コウモリが、自分の命を危険から守った」
 というだけで、何が悪いというのか、
 戦争に紛争において、
「自衛のための行動」
 というものを罰したり、非難されることはないではないか、
 さらには、
「殺人罪」
 という犯罪においても、
「緊急避難」
 であったり、
「正当防衛」
 ということでの、
「自衛」
 ということであれば、人を殺しても、その人は無罪ということになるのである。
 もちろん、そのためには、
「緊急避難」
 であったり、
「正当防衛」
 としての、要件を満たしていないといけないということで、本人がそれを立証する必要があるだろう。
 だが、この、
「卑怯なコウモリ」
 という話には、
「被害者」
 というのは存在しないのだ。
 つまりは、
「被害者がいないのだから、最初から犯罪などは存在していない」
 ということになる、
 だから、逆に、物語になるのである。
 というのは、
「被害者がいない」
 ということは、確かに、
「犯罪ではない」
 ということであるが、その分、心理的な部分として、
「犯罪とならない」
 ということで、鳥や獣たちは、コウモリを、果たして、
「無罪放免ということで許していいのだろうか?」
 という道理的な問題が孕んでくるのであった。
 学校教育においては、
「犯罪か犯罪でないか」
 ということは関係なく、
「道義的に悪いことをすれば、それは悪いことなのだ」
 という、道徳的、さらには倫理的な問題として捉えるとするならば、このコウモリの行動は、
「果たして許されることなのだろうか?」
 ということで、考える材料としては、恰好なものだということになるだろう。
 しかし、ここで問題なのは、
「法律で規定されたことを破るのが犯罪」
 ということで、犯罪が絡んでくれば、最後には、法に則って、きちんと、
「有罪無罪の判決が出る」
 ということで、その理屈が決まってくるということになるのだろうが、
 道徳的なことは、実に曖昧で、それだけに、
「結論を出してはいけない」
 ということになるのかも知れない。
 要するに、
「教育の教材として、考えること」
 というものを、教えることが大切だということになるであろう。
 このことを考えていると、
「卑怯なコウモリ」
 という話は、
「人間の道徳教育のための、ただの教材」
 ということになる。
 本当は、
「裁いてはいけない」
 ということを、この物語は、
「コウモリの生態」
 というものの理由が、どこにあるのか?
 ということから、さかのぼって、
「あの孤独な生態は、過去の罪にならない罪によって育まれたもの」
 という理屈であった。
 ただ、これも、
「人間のエゴが作り出したものだ」
 といえるのではないだろうか?
 というのは、
「コウモリが孤独で、暗いところに住んでいるからといって、その前に罪を犯した」
 というのは、理屈としては、合っているかも知れない。
 ただ、それはあくまでも、
「一理ある」
 という程度のことで、なぜかというと、
「孤独だから、寂しい」
 と誰が言えるのだろうか?
 ということである。
 確かに、
「人間は一人では生きていけない」
 ということで、集団生活というのは当たり前のことだということになるが、
「人によっては、孤独というものが好きだ」
 という人だっているだろう。
 一人でコツコツこなすことを自分の性格だと思っていたり、人とかかわることが、どれほど煩わしいことかということを分かっている人は山ほどいるはずだ。
 だから、今の時代は、元々は、
「いじめ問題」
 というものが原因だったかも知れないが、
「いじめ問題」
 に関係ないところで、
「引きこもり」
 というものが頻発しているというではないか。
 部屋に引きこもって、ゲームばかりをしている。それを大人は、
「何とかしないといけない」
 とは思うかも知れないが、一度説教して、極度に抵抗されれば、もう何もできなくなる。
 そんな家庭は、今ではほとんどなのかも知れない。
 もっとも、親は親の世界でいろいろある。子供は分かるわけはないし、大人も子供時代を経験しているとはいえ、今と昔とでは、まったく違う世の中になっているのだ。
 お互いに、
「分かり合える」
 と思っているとすれば、そもそも、それが間違いで、それぞれに、
「相手が傲慢でエゴだ」
 と思っている以上、どうすることもできないだろう。
 それは、
「自分のことを棚にあげて」
 ということになるのかも知れないが、それを分かっていたとしても、分かっていないとしても、
「相手が傲慢でエゴだ」
 と感じた時点で、
「もうどうなるものではない」
 と自分たちで勝手に結論を出していることだろう。
 そうなると、
「何とかしないといけない」
 と思っていたとしても、何もできなくなるのは当然のことだ。
「下手なことをして、取り返しがつかないことになってしまう」
 というのが怖いからだ。
 そうなると、結局、
「他力本願」
 ということになる。
 相手にやらせることで、
「もしうまく行かなかった場合は、相手のせいにしてしまえばいい」
 と思う。
 もし、それを、
「卑怯だ」
 というのであれば、それこそまるで、
「卑怯なコウモリ」
 に出てきたコウモリのようではないだろうか?
 だったら、
「そのコウモリを卑怯だ」
 と誰が言えるのだろうか?
 人間には、そういう矛盾したところがある。
 だからこそ、道徳として、教えるということであれば、理屈は分かるのだが、それを教えられる方が理解しているのかが重要だが、そもそも、
「教える方」
 が分かっていないのだから、
「教育でもないでもない」
 といえるのではないだろうか?
 それが、教育というものであり、そして、
「教育にある限界」
 といえるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「寓話というものは、実はもっと深いところに真理というものが存在しているのかも知れない」
 と感じるのであった。
 捕まった少年は、名前を西島という。
 中学2年生ということで、店長には、そこまでは話したが、それ以上の詳しいことを話すことはなかったのだ。
 この警官は、名前を、
「佐久間」
 といい、職というのは、巡査部長であった。
 彼は、昇進試験を受けることもなく、
「街の安全」
 というものを最優先に考え、昇進するという壱岐市もないまま、
「たぶん、50歳前くらいだろう」
 という年齢に見えたのだ。
 そういう意味では、先ほどの店長の前よりも、佐久間巡査の前の方が、それほど緊張していない。
 最初は、
「捕まってすぐ」
 ということもあったので、西島少年も、頭の中が真っ白になった状態で、本人とすれば、
「夢なら早く覚めてほしい」
 というくらいに思っていたのだ。
 確かに震えもあり、
「これからどうなるのか?」
 という不安も大きかったのだが、すぐに、気持ちがほぐれてきたのは、
「絶えず他人事」
 という風に考えていたからであろう。
「悪いことをして捕まったのに、何を他人事だって思ってるんだ」
作品名:三つのわだかまり 作家名:森本晃次