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三つのわだかまり

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 などというものができてから、車両が増えたような気がするのは気のせいであろうか?
 もっとも、
「鉄道会社が、利益を考えずに乗客のために、車両を増やすなど考えられない」
 と思うからだ。
 しかし、確かに、昔ほどの通勤時間のラッシュがひどくはない。それだけ、時間差出勤というものが浸透してきたのかも知れない。
 ただ、乗客のマナーが決していいとはいえない。
 ラッシュの時間でも、入口では、押し込まないと入れない状態なのに、通路のしかも、座席に近いところあたりでは、まだまだ余裕があるという状態である。
 つまり、
「皆が、一歩でもずれてあげると、余裕で乗れるのに」
 という状態を、知ってか知らずか、知っている確信犯であれば、
「これ以上、たちが悪いということはない」
 ということになるだろう。
 そんな状態で、駅にて、パンや牛乳を飲んでいる姿が、実に懐かしいと思っている人も多いだろう、
 しかし、今は駅のホームに売店があるということもなくなった。
 大きな駅でなくても、以前は、駅の券売機の近くに、売店があり、
「そこでおばちゃんが一人で販売員をしている」
 などという姿が結構見られたりしたものだった。
 しかし、今ではそんなこともない。
「客が減ってきた」
 ということもあるだろう。
 これは、社会の発展により、新しく便利なものが出てきたことで、
「古いものは消えていく」
 という状態になっていくのだろう。
 例えば、
「インターネットの普及」
 である。
 これは、街の商店街や、駅ビルなどを違った形に変貌させたものということの一つであり、というのは、
「一番大きいのは、紙媒体のものがなくなってきた」
 ということだ。
 今では、
「ネットで新聞を見たり、本を購入することもでき、紙媒体ではなく、ネットで直接見られるようになった」
 しかも、昔であれば、パソコンでしか見れなかったものだが、今では、
「スマホの普及によって、インターネットの世界がそのまま、スマホで再現できるという時代になった」
 ということで、
「パソコンすら持っていない」
 という若者が増えてきたということである。
 部屋に、
「テレビもパソコンもない」
 という、
「スマホ1台あれば十分」
 という人もいれば、逆に。
「スマホを数台持ちたいから、パソコンもテレビももったいない」
 という人が増えてきたのだろう。
 テレビは、かなり安くなっては来たが、パソコンは、まだまだ普通に買えば、ノートパソコンなどは、スペックを気にせずに使えて、
「パソコンでしかできないようなアプリ」
 ということになれば、それこそ、
「20万円以上のものでないと不便で使えない」
 というものが出てきているのであった。
 それなら、
「スマホの機種を増やして、何台も持っている方がいい」
 という人が多いようだ。
 そもそも会社にいけば、仕事用のパソコンは、会社が用意してくれている。
 ということもあるし、今の時代は、
「個人情報の保護」
 ということもあり、以前のように。
「仕事を家に持って帰ってやる」
 ということができなくなったのである。
「会社の情報を、勝手に持って帰る」
 あるいは、
「表に持ち出す」
 ということは、
「なくしてしまった時の問題がある」
 ということで、許されないことなのだ。
 そうなると、パソコンを家で使う何かの趣味でもない限り、必要のないものということになるだろう。
 特に、SNSや、テレビ替わりにユーチューブなどを見るというような場合には、スマホがあればいい」
 ということになるのである。
 時代の流れは実に早いといってもいいだろう。
 携帯電話が普及してきたのが、
「21世紀になった頃」
 ということなので、
「そろそろ四半世紀」
 といってしまうと、
「結構長いな」
 と感じるのであろうが、それだけではない。
 何といっても、その間に、パソコンのインターネットもいろいろと変化し、それに付随するようなサービスやアプリもいろいろ開発され、消えていったものも多いのだが、その分、
「洗練されたものが残った」
 といってもいいだろう。
 そして、残ったものも、次第に開発されていき、便利になってくる。
 しかし、それは、
「便利になるがゆえに、専門的な人間にとっては、物足りない」
 と思っている人も多いだろう。
 インターネットが普及した頃、
「個人で、ホームページを作る」
 ということが流行っていた。
 各プロバイダーであったり、いろいろなレンタルサーバーの会社があり、
「有料」
 あるいは、中には、制限はあるが、
「無料提供」
 というところもあり、ある程度自由に、自分でデザインできたりしていた。
 完全に、自分の領域のスペースなので、今のSNSとは少し違っている。
 今のSNSなどというのは、一つの大きなサービスの中で、自分のスペースがあり、それは、ほぼ決まったデザインの中で作られている。
 もちろん、画像を変えたりすることで、オリジナリティを出すことができるが、何かのコンセプトを持ったものであったり、個人がデザインの中で、自由にコンテンツを選べるというような形ではなかった。
 昔のホームページであれば、
「写真や、お絵描きを公開したり」
「小説や、エッセイなどを公開したり」
 という芸術的な作品発表のものも結構あったが、今のSNSでは、自由なデザインというのはできず、決まったテンプレートの中に、ただ、画像をアップしたりするくらいで、なかなか自由にはできない。
 できるとすれば、
「それぞれに特化したSNSをそれぞれで借りて、リンクを張るトップページのようなものを作れるアプリを使って、そこからリンクする」
 という形にしかならないだろう。
 それを考えると、
「SNSというのは、少し寂しくなった」
 といえる。
 確かに、自分だけは、昔のホームページのようにできるかも知れないが、ほとんどの人はそこまでこったことをしようとは思わない。
 昔のホームページは、
「自分のページをホームグラウンドにして、それぞれに交流する掲示板に書き込んだり、リンクでつながったりして楽しむものだった。
 やはり、アプリが充実してきて、
「便利さを求める」
 ということになれば、
「いろいろ苦労してでも、自分で楽しみを見つける」
 ということができなくなってしまったということに、寂しさを覚える人は、かなり少なくなってしまったのだろう。
「時代の流れの速さに、ついていけていない」
 ということになるのだろうか?
 やはり、
「黎明期」
 というのは、その時代に必ずいいことはあるといってもいいのではないだろうか?
 そんなホームページは、あくまでも、スペースを借りるということで、あったが、今のほとんどのSNSというのは、
「あるアプリの中で、自分の部屋がある」
 というものだ。
 だから、ホームページのように、知り合いのホームには、
「リンクで飛ばす」
 というページを作り、気に入った相手だけとつながる。
 ということができた。
 しかし、SNS、いわゆる有名なところで、旧ツイッターというところは、そういうわけにはいかなかった。
 というのは、
作品名:三つのわだかまり 作家名:森本晃次