三つのわだかまり
だから、2年目の今は仕事にも充実感を感じてきたので、生活にも余裕が出てきたのだ。
ただ、生活は相変わらずだった。
そもそも、ものぐさなところのある西島は、毎日の生活が充実はしているのだが、
「何か、最近、何を食べてもおいしくないって思うんだよな」
と感じていた。
「生活は充実しているんだけどね」
と同僚に話すと、
「それじゃないのか? 充実していると、何が楽しいのかという感覚がマヒしてくるからな。言い方を変えれば、何をしていても楽しいのさ。だからすべてが楽しいから、本来なら、一番楽しいはずだと思っていたことも、楽しさの中に紛れてしまって、楽しいという感覚がマヒしてくる。つまりは、贅沢な悩みなんじゃないか?」
という。
「ということは、悩みでもなんでもないということなのかな?」
と聞き返すと、
「まあ、それも言えるかも知れないな。だけど、別に悩みじゃないとは言っていないさ。誰にだって悩みはある。問題はその大きさということで、今のお前だったら、悩みのうちには入らないレベルじゃないかって思ってね」
と言われた。
「そうなのかなぁ?」
と考えていたが、それを見ながら友達は、何か含み笑いを浮かべているような気がした。
その表情は、複雑な笑みに見えたが、決して嫌な雰囲気ではない。
「友達がああいう表情をする時は、暖かい目で見てくれている時だ」
というのは分かっているので、気にしないようにしたおかげで、それからあまり気にならなくなった。
ただ、そうなると、
「何を食べていいのか分からないな」
と思うのだった。
この日のように、普段は、スーパーやコンビニで弁当を買って帰って、部屋で食べるという生活で、学生時代であれば、
「一番みすぼらしい姿で、こんな生活はしたくない」
と思っていたからだ。
「給料が少なくて、こういう食事しかできない」
という以外。食事にケチるようなことはしたくないと思っていた。
もちろん、何か金がかかるような趣味ができて、お金をそっちに使うことが、一番の楽しみだということであれば、それに越したことはないので、
「食事をケチる」
ということに、抵抗はないだろう。
しかし、そんな趣味があるわけでもないとすれば、
「おいしいものを食うということが、一つの趣味のようなものだ」
ということで、
「食べ歩き」
などをしたいくらいであった。
大学時代には、
「食べても食べても、まだまだ腹が減る」
というくらいの頃があった。
「二十歳くらいの頃が一番お腹が減ったものだ」
と思っていて、その頃は、
「何をやっていても楽しかったな」
と感じていた、
しかし、その頃はそれでも、二つ気に入らないことがあったのだ。
一つは。
「彼女ができない」
ということであった。
大学に入学してからは、それまでずっと暗かった自分を変えようと、友達を作りまくった。
中学時代から、あの万引きに走った時期から、その暗さは変わっていない。
しかし、だからと言って、受験生だった頃、その暗さに押しつぶされたアリ、精神的にストレスをため込みすぎて、あの時のような衝動的行動で、万引きをしてしまうというような精神状態ではなかった。
実際に、万引きに走るような精神状態になったのは、あの時が、
「最初で最後」
だったのだ。
自分でも、あの時の心境を思い出せない。
というよりも、
「自分が万引きをした」
という意識が頭の中にはないのだ。
記憶としては、
「万引きをしてしまった」
という感覚は残っているのだが、あくまでも感覚ということで、意識ではない。
だから、あの時助けてくれた、
「佐久間巡査部長のことも忘れてしまった」
といってもいい。
「都合の悪いことは覚えていない」
という、ある意味、
「都合のいい性格」
だということなのかも知れないが、その顔も、すぐに忘れてしまい、次第に存在も、感覚ということであり、記憶ではなくなっていたのだった。
そんな西島は、受験生の時代、
「こんなものだ」
ということで、他の人が苦しんでいたり、孤独に苛まれているように見えたのに、自分はそんな苦痛がないというのは、
「孤独だと感じないからではないか」
ということは分かっていたのであった。
そもそも、勉強が嫌いというわけではなかった。
今までに、
「勉強が嫌いだ」
と思ったことがあったとすれば、それは、
「中学二年生」
の頃だったという思いであった。
そう、ちょうど、西島がたった一度だけの過ちとしての、万引きをした時であった。
その時の心境は思い出せないが、
「何かに押し出されるような感覚があった」
というものだった。
それはまるで、
「ところてんのように後ろから押し出されるかたちで、麺のように細くなって、容器に流れ出る」
というような感覚だった。
ただ、それも、感じるから分かるというもので、それを思い出したという気持ちではない。
「思い出そうとすると思い出せない」
という記憶であった。
つまりは、
「記憶として残っているものではない」
ということだったのだ。
そんな思いを感じていると、中学、高校時代は、
「毎日が変わらないリズム」
と思っていた。
「一日一日があっという間に過ぎるのに、それが一週間、一か月と、それぞれの節目で考えると、経った時間が、かなり前のことのように思えてくる」
と思えたのだ。
その時の感覚が、嫌というわけではなかった。
確かに自分の中に閉じこもっているようであったが、その分、充実感があったような気がした。別に、
「何かの目標があったり、未来に希望を持ったり」
という具体的なものはなかったが、漠然と、目標や、希望のようなものを持ちたいとは思っていたのだろう。
しかし、それを具体的にするには、
「まだ早い」
と思っていた。
そして、その具体的なものを持つにも、
「段階」
というものがあり、その段階には節目があり、その節目というのが、
「受験」
というものではないか?
と考えるようになったのだ。
だから、
「高校受験」
であったり、
「大学受験」
というものが、控えているということになるのだろう。
受験生というものを味わうことが、
「節目で、段階だ」
ということになれば、
「それ以上先を見るということはない」
といってもいいだろう。
つまりは。
「高校生になる」
ということは、その時に、一歩成長するということになるのだろう。
それを、考えた時、
「グラフというものを思い出した」
普通にグラフというと、直線で、右肩上がりの、
「横を時間軸として、縦を成果とするようなグラフであれば、握肩上がりの正比例のグラフを普通は思い出すものだ」
ということになるが、この時に感じたものは、
「階段グラフ」
と呼ばれるもので例えばとして、
「タクシーメーター」
に近いというものを考えていたのだが、それがどういうものかというと、