いたちごっこの堂々巡り
「群雄割拠の戦国時代」
などでは当たり前で、江戸時代の、天下泰平の時代でも、そんなことが堂々と行われていたということであった。
そもそも、
「城というのが、防衛のためのもの」
ということである。
敵に漏れてしまうと、何のための城なのか、分からなくなるというものである。
城を築いてくれた人は、何も悪いことはしていない。
それは、人柱になった女性たちでもそうだ。
しかし、時代は封建制度
「自分たちの土地を守ってくれる領主のために、戦ったり、城の修理工事にかかわったりするのは当たり前のことであろう。
それこそ、
「ご恩と奉公」
というものであるが、だからといって、簡単に命を奪っていいのかなのかどうか、これは、時代の違いということから、考えさせられることであった。
それを思えば、
「権力を持つと、人間は非人道的といわれることを平気でする」
ということになる。
だが、これも、
「領主と、領民」
という関係がないと成り立たない世界でもある。
だから、その関係や、
「領国を守る」
ということでは、致し方のないことということで、ずっと、
「悲劇の歴史」
というものを繰り返してきたということになるのであろう。
そんな時代から、明治以降は、
「国内ではなく、海外に目が向けられただけ」
ということで、
「悲劇の歴史は繰り返される」
ということになるのだろう。
それをいたちごっこといったりして、その問題は、
「負のスパイラル」
ということで、ずっと繰り返させることになる。
その代表が、今の時代であれば、
「核開発競争」
ということで、長い間、
「抑止力」
として働いていると思われたものだった。
人間社会にも、この、
「いたちごっこ」
そして、
「抑止力」
という均衡が、ずっと息づいてきているのかも知れない。
「負のスパイラル」
という意味で、世の中、不思議なことが多かったりするというではないか?
というのも、例えば、今のソーリということでも、
「今のソーリは最悪だから、今なら誰がなっても、今のソーリよりはましだ」
と思ってしまう。
本来であれば、
「日本というのは、そんな情けない状態の国になってしまったのか?」
ということであるが、実際にそうなのだ。
しかし、実際に、
「今のソーリがあまりにも人気がないので、次の総裁選には出馬しない」
ということになれば、国民のほとんどは、
「やったー」
ということになるだろう。
しかも、それを、
「俺たちの評価が、代表され、内閣支持率として反映されるのだから、俺たちが辞めさせたようなものだ」
ということで、
「政治参加ができた」
ということで喜ぶことだろう。
しかし、実際に選挙ともなると、
「どこの党に入れても同じだ」
ということで、選挙に行かなくなる。
そうなると、選挙というものは、
「投票率が下がると、与党に有利」
ということになるのだ。
というのも、
「そもそも、与党には、組織票というものがあり、ある程度はその組織票で賄える」
つまり、投票率に関係ないのだから、
「分子が同じで分母が減るわけだから、得票率は与党に有利だ」
ということだ。
しかも、投票率が低いと、野党の数が多ければ多いほど、
「票が分散する」
ということで、与党とすれば、
「できればm投票率が低い方がいい」
と思っていることだろう。
ただ、野党というものも、支持率が野党第一党といえども、
「一桁」
ということでは、相手になるわけもない。
しかも、最近の野党は、
「文句や批判をするだけで、代替案というものを出してこない」
ということで、それこそ当てにならないということになるのであった。
しかも、一度だけ、政権交代が、ここ十数年の間くらいであったが、その時は前述のような、
「東北の大震災」
というものがあったのだが、その時の対策のせいで、
「国民からそっぽを向かれてしまった」
ということで、それこそ、
「国民全員を敵に回す」
という暴挙に走ったのであった。
それを考えると、
「野党になどやらせたのが、間違いだった」
とばかりに、
「本当は、幕末の徳川慶喜のようにさせたかったのだが、その代わりとなるものが、まったく形を成していないのだから、どうしようもない」
ということであったのだ。
不連続殺害事件
今までの凶悪犯を思えば、今回の殺人も、
「殺害方法としては、凶悪だ」
といえるのではないだろうか?
その死体が発見されたのは、一週間くらい前のことだった。
一人の女性が、会社からの帰り道、いつもの公園を歩いて帰っている時、普段はあまりいない野良犬が、2匹ほど大きな木の根っこのあたりをほじくっていた。
その公園は、児童公園というよりも、自然公園という雰囲気で、少し大きな公園になっていて、公園の中心には、池というには大きいくらいのところがあり、そのまわりには、いくつもベンチが置かれていて、早朝であれば、ジョギングをする人が休憩に使い、昼間は、散歩する人や老人が使い、夜になると、カップルが使うのではないかと思えるような場所だったのだ。
そんなところだったので、
「市民の憩いの公園」
ということになっていた。
だから、
「ジョギングコース」
として整備されたところでは、ジョギングの道、散歩道、そして自転車道と、それぞれ、接触しないように分けられていた。だから、それぞれを合わせて一本の道だと考えると、かなり広い道を形成していたといってもいいだろう。
そんな遊歩道から、池と反対側には、いろいろな気が植樹されていて、四季折々の顔を見せてくれるということで、いくつもの森のようになっていた。
中には、芝生になっていて、ピクニック気分を味わえるところもあるが、それ以外のところは、小さな森のようになっていて、普段は、人が入り込むようなことはない。
昼間であれば、まだしも、夜ともなると、遊歩道の明かりだけでは、森を照らすこともできずに、ほとんど真っ暗な状態で、
「気持ち悪い」
といってもいいだろう。
それを思うと、その日、森の中にいる犬たちの行動が、少し武器に見感じたのも、無理のないことなのかも知れない。
その女性には、その時にいた犬たちの様子が、まるでオオカミのように見えたのだ。
「ウォーン」
という低い声で、しかも、絞り出すような声がしたかのように思うと、それが、
「オオカミの遠吠え」
であり、まるで、仲間を呼んでいるかのように響くと、背筋が寒くなってくるように感じたのであった。
本当であれば、気持ち悪くてすぐに通り過ぎてしまうのだろうが、犬たちは、彼女がそこにいると感じたのか、急にビビったかのように、その場から、ゆっくりと退散していくようだった。
まるで、何か悪いことをしているかのような様子に、彼女も少し大胆になった。
「何も私がビビる必要もないんだ」
と思ったのだ。
作品名:いたちごっこの堂々巡り 作家名:森本晃次