いたちごっこの堂々巡り
ということである。
特に、時間が勝負ということで、
「一刻を争う」
という時は、余計にそんなことを考えるのであろう。
だから、別動隊として暗躍している方も、
「急いては事を仕損じる」
ということわざもあるが、ゆっくりもできないというジレンマもある。
「計画は入念に練らなければいけないが、できた計画を迅速に行う」
ということになるであろう。
そういう意味で、
「計画というものが、いかにうまく進行するか?」
ということを考えれば。彼らの任務は決して軽いものではなく、むしろ、捜査本部としての優先順位は高いところにあった。
というのも、実は、捜査本部も、薄いところではあるが、
「狂言誘拐ではないか?」
という考えが、上層部にはあった。
というのも、
「西園寺グループに不穏な動きあり」
ということが、公安あたりから話が伝わってきていたのだ。
もちろん、警察内でも公安でも、
「トップシークレット」
ということで、最高のかん口令だったのだが、
それは、
「国家を揺るがし噛めない企み」
ということだけは分かっていた。
それが、
「何かの詐欺のようなものなのか?」
あるいは、
「武力によるクーデターのようなものなのか?」
ということが、まことしやかにささやかれていた。
どちらにしても、由々しき状況であり、それをいかに防ぐかということが今の警察トップの問題であった。
そんなところで起こった、
「西園寺家を巻き込む誘拐事件」
それを聞いた上層部は、すぐに、
「これは、やつらが暗躍をごまかすためのカモフラージュではないか?」
と思えた。
彼らは自分たちの計画を、警察や公安が察知しているということを知っているのだろうか?
もし、知っているとするならば、
「この計画は、最初から仕組まれていたことではなく、警察や公安に対しての、実質上のけん制としての、やむを得ないものだったのではないか?」
と感じるのだ。
しかし、逆に、知らなかったとすれば、
「やつらは、最初からカモフラージュとして、誘拐を考えていた」
ということになり、警察も公安も、
「西園寺グループにしてやられた」
ということになるだろう。
それは、警察にとっては、屈辱的なことであり、それでも、相手の頭脳に敬意を表するという考えにならないといけないということであろう。
その状態で、
「敢えて、相手と同じ立場に立って、こちらも動く」
ということへの戒めとして考えられることではないだろうか。
それを思えば、
「果たしてどっちなのか?」
ということは、結構大きな意味を持っている。
ただ、西園寺グループくらいの天才集団が揃っていれば、前者の、
「やむを得ない計画」
だったとしても、彼らはそれに対しての対策というものは、キチンとできているということではないだろうか?
それを思えば、事件がなかなか解決しないようでは、今度は相手に見透かされてしまい、元々の彼らの目的通りに、カモフラージュされることになる。
ただ、これはあくまでも、
「警察の思い込みである」
ということで、本当の誘拐であった時は、それこそ、西園寺グループだけではなく、すべての国民に、詫びても詫びきれない状態になってしまう。
「警察は無能だ」
であったり、
「やはり、警察組織の融通の利かなさから、こんなことになってしまったんだ」
ということになるだろう。
そうなってしまうと、
「法治国家」
と言えなくなってしまう。
法というものはある程度整備されているとしても、それを行政としての担い手である警察や公安が、
「無能だ」
というレッテルを貼られてしまうと、どうしようもなくなるというものだ。
何かがあった時、
「治安を維持する」
ということで配属される警察官のいうことを、いざとなった時に誰も聞かないなどということになると、一大事である。
日本には、軍もなければ、
「戒厳令」
というものも存在しない。
自衛隊も、内閣の指示に従うだけで、警察ほどの、治安維持の力を、いざという時に発揮できないのではないかと思えるのだ。
そもそも、自衛隊というのは、
「実行部隊」
であり、
「有事の際の治安維持への勤め方」
などは分かるだろうが、警察が本来行うべきところを自衛隊に任せるのは酷である。
しかも、それをやっているうちに、実行部隊としての活動がおろそかになってしまえば、それはそれで、
「本末転倒ではないか?」
ということになるであろう。
そんなことになってしまってはいけないわけで、警察機能がマヒするということは、
「治安維持」
というものができなくなり、無法者と言われる状態になってしまうことだろう。
それこそ、
「弱肉強食」
の世界であり。
「強い者だけが生き残り。弱いものは、強いもののための餌食になる」
ということである。
そうならないように、日本はずっと
「法治国家」
である。
大日本帝国の時代も、天皇による絶対君主ではなかったではないか。
「憲法に則った、立憲君主の国」
ということだったのだ。
憲法が大切なことだというのは、列強に結ばされた不平等条約の撤廃と、最優先とした明治の元勲の時代から分かっていたことである。
そんな時代が敗戦によって、民主国家に変わったのだ。主権が国民に移ったということで、まったく違う国に生まれ変わったというのは、それだけ、「
「君主というものが大きかった」
ということであろう。
実は、西園寺一族は、
「財閥の混乱」
という状況に乗じて、
「国家転覆を狙ったことがある」
というウワサがあった。
この話には、思ったよりも信憑性がないと言われていたが、それはやはり、
「損得問題」
が大きかったことだろう。
彼らは、最初、
「国家を転覆させ、そこから自分たちがGHQにすり寄って、国家が混乱している間に、
「この国も影のフィクサーになろう」
と考えたのだ。
しかし、それが水泡に帰すということになったのは、
「朝鮮戦争の勃発」
ということであった。
朝鮮戦争というのは、そもそも、
「朝鮮半島を、北と南で、分割統治」
という形にしてしまったのが大きな間違いだったのではないだろうか?
特に、北の共産ゲリラと言われる、いわゆる、
「パルチザン」
と呼ばれる連中が、国家を、ソ連の後押しもあって、
「共産国家」
にしてしまったのが大きかったのだろう。
しかも、彼らは、
「朝鮮半島の統一」
を目指していた。
今まで、日本に併合される前は、古代以降の、
「李氏朝鮮」
になってからは、
「統一国家の道」
を歩んできたのである。
それを考えると、南部のアメリカを中心とした民主国家というものが邪魔だったというのも分かるというものである。
だから、一触即発の状態であり、しかも、それぞれに、統一をもくろんでいることは、それぞれに、独立し、建国したことからも分かるというものだ。
もっといえば、
「ヤルタ会談によって、ソ連が日本に参戦し、満州に攻め込む」
という密談が成立した時点で。
「朝鮮戦争」
というものは避けられない状況にあったといえるだろう。
作品名:いたちごっこの堂々巡り 作家名:森本晃次