いたちごっこの堂々巡り
子会社ということにしてしまうと、
「系列会社」
ということで、あまり身動きがとりにくくなりそうなので、そこは、建前上、
「上下関係ではなく、協力関係」
と見せておいて、裏では、しっかりと、
「上納金」
というものを受け取っているということだ。
だから、表では、
「今の時代に、こんな優良な大会社があるというものか?」
ということであった、
バブル崩壊からこっち、経済の混乱とともに、
「吸収合併」
というものが、どんどん行われ、結局、
「合併された方の社員はたまったものではない」
ということで、
「いつ、リストラされるか分からない」
という恐怖もあっただろう。
逆に、
「吸収した方の社員」
というのも、面白くはない。
吸収できるだけの利益を挙げたのは、自分たちの努力によるもの。
しかし、そこに吸収されなければ生き残れないという、赤字まみれの会社の社員が入ってくるのだ。
「せっかく、自分たちが大きくしてきた利益を、赤字会社の埋め合わせに使われる」
ということに、現社員は黙っているということもないだろう。
不満は噴出し、会社でも、仕事に集中できないかも知れない。
それを思えば、
「俺たちは、何のために働いてきたんだ」
として、同じ会社の社員になるのに、社員間で、完全な一触即発ということになることを、
「上層部は分かっている」
というのだろうか?
これが、バブル崩壊においての、
「負のスパイラル」
ということなのかも知れない。
それを思えば、
「西園寺グループ」
というのは、実にうまい世渡りをしてきたということになるだろう。
狂言の末
そんな西園寺グループには、
「表からでは決して見えない」
という
「企業締結」
のようなものがあった。
そこで、どのような取り決めが行われているのかというのは、西園寺グループの、顧問弁護士が、すべてを取り仕切っている。
もちろん、社長である、西園寺雄太郎氏の許可を得てのことだが、だから、ここでいう取締役会というものは、
「表向きと、裏とで、二つ存在している」
といってもいいだろう。
表向きには、取り締まり役のすべての人がかかわっているが、裏では、そのうちの一部だけが知っていて、暗躍にかかわっているといってもいいだろう。
そんな会社なので、下手に探ろうとすると、警察であっても、
「そこから先は決して立ち入ることのできない結界のようなものがある」
ということになるのだ。
そこに、門倉刑事たちは、入り込もうとするのだから、少し厄介だといってもいいだろう。
実際に、門倉刑事たちが探りを入れようとしても、まるで、
「最初からなかった」
かのように、少なくとも、存在しているであろうものが、存在していないというところでしかなかった。
それも、納得いくようになっていることで、
「これ以上、どう調べればいいんだ?」
ということになるのであった。
捜査する側とすれば、
「まるで、証拠隠滅でもされているかのようだ」
としか思えない。
しかも、それは、一瞬にしてできることであり、
「きっと、いざという時のために、訓練していたというか、それだけの力が存在している」
ということで、警察の、
「おのずと、その力には限界がある」
という権力などでは、到底かなうものではないのだろう。
そんなことを考えていると、
「我々が考えて行動すると、すでに、後手後手に回っているように思える」
という、
「負のスパイラル」
というものに陥り、
「動けば動くほど、アリジゴクに嵌っていくような気がする」
と感じるのだ。
それだけ、
「西園寺グループ」
という組織が、戦後を乗り越え、
「バブル崩壊」
をチャンスとして待ちわびていた状態から、今までの地位を築いていたということを考えると、
「そこに、彼らの知恵というものが表にあるとすれば、それによって培われた力というものが、裏に存在している」
ということになるのであろう。
そんな
「西園寺グループ」
に対して、大っぴらに動けば、却って目立ってしまって、奥に入り込めなくなってしまう。
かといって、すでに誘拐事件が起こり、その捜査に乗り出してしまったのだから、
「すでに面は割れている」
ということで、
「内偵」
などということもできるはずもない。
それを考えると、せっかく、副本部長の許可を得たのに、前に進めないということになるではないか。
だが、
「我々のことを読まれているから、先に進めない」
ということなのか?
それとも、
「最初からやつらは、こういうことを予測していて、その体制をずっと築いてきたことで、近づこうとしても、近づけない」
ということになっているのか?
と考える。
前者であれば、
「狂言誘拐」
というものが、説得力を持ってくるというもので、
「警察に対して、策を施すくらいであれば、もっと、誘拐事件に力を注ぐというものだろう」
誘拐された子供の身を案じている普通の父親ということであれば、もっと、真剣にそちらに注視するはずだからである。
もっとも、
「奥さんが若い」
ということもあって、かなり年を取ってからの子供ということで、できた時には、それだけの喜びというものがあったはずだ。
それを思うと、
「警察の方に、注力できる」
ということであれば、
「子供は安心」
と最初から分かっていて、少なくとも警察を愚弄しているのかも知れない。
許せないことではあるが、本当の誘拐ということで、
「人質に万一のことがある」
ということになるよりも、よほどましだということだ。
もちろん、上層部はそんなことは思わないだろうが、少なくとも、現場の人間からすれば、
「無事に人質が解放されるのが一番」
ということである。
もちろん、
「犯人逮捕」
がその次の優先順位だが、
「人質解放さえできれば、それで一段落だ」
ということになる。
ただ、実際にそうだろうか?
もし、犯人が味をしめて、
「他にまた犯罪を犯しかねない」
ということになるかも知れないし、
それ以上に、
「模倣犯が頻発する」
ということになれば、警察の威信は失墜するといってもいいだろう。
何といっても、それは、
「警察が頼りないから、模倣犯が出るのだ」
ということで、その責任の矛先が警察に向くということが分かり切っているからだといえるだろう。
そんなことになれば、
「人質が無事でよかった」
という問題ではなくなってしまう。
治安が乱れ、下手をすると、沸き起こった誘拐事件の中には、
「本当に人質が殺される」
ということになれば、
「あの時、犯人の好き勝手にされてしまい、人質が無事だったということで、満足した警察が悪い」
ということになるだろう。
「決して満足したわけではない」
というのが警察の本音であろうが、世間はそうは見ない。
それだけ、
「世間は、上から目線でしか見ない」
ということになるだろう。
そんな状況は、
「起こってしまっては、後に祭りというものだ」
つまり、
「後悔先に立たず」
作品名:いたちごっこの堂々巡り 作家名:森本晃次