時代背景の殺人事件
ということくらいは、分からなくもないが、
「母親が違うということは、赤ん坊の取り違いでもなければありえないだろう」
ということであった。
「そんなバカなことはない」
と思い返し、
「両親が違うなんて」
と思ったことで、それ以上は、その時は感じないようになったが、それからことあるごとに、
「おやじって本当に実の父親なのだろうか?」
という思いが強くなってきた。
これは、
「そう思う方が気が楽だ」
という思いがあるからで、自然と感じるようになったのだ。
やはり、正月に、
「友達の家に泊まれなかった」
というのが、決定的であり、そのせいか、
「親のどっちかが死んでも、涙を流す気がしない」
と思うのだった。
「あの時に屈辱の涙を流しながら帰ったという事実が、この俺を少々のことでは涙を流さない」
という人間に変えたのではないかと思うのだった。
確かに、涙を流すような場面でも、悲しくなかった。
たまに、ドラマなどで、葬式のシーンが出てくるが、
「家族はまだしも、参列者が皆、涙を流して、ハンカチで目をぬぐっているシーンを見るが、どうして、家族でもないのに、涙を流せるんだ」
という率直な疑問を感じるのであった。
康人の場合は、父親だけでなく、母親に対しても感じている。
ということは、それだけ、
「もう、誰かのために涙を流すということは、ウソでしかない」
と考えるようになったということであろう。
康人はそんなことを考えていると、
「さすがに両親が違っているのではないか?」
と思うようになったかと思えば、
「兄貴に対しても、嫌になってきた」
というのは、
「いつもハッキリせずに、いじいじしているくせに、性格的に父親に似てきた」
というところからであった。
家族に対しての反発があるくせに、言っていることが、父親と似ているように思えたのだ。
というのも、父親のいう言葉のワードで同じ言葉が出てきたからだ。
その言葉は、康人が一番嫌いな言葉で、
「常識的」
という言葉であったり、
「一般社会人」
という言葉であった。
しかも、二人の共通認識というのが、
「平均的になんでもこなす人が一番なんだ」
という考え方である。
だから、
「常識的」
であったり、
「一般社会人」
という言葉になるのだろうが、兄の場合は、
「口ではそういっているが、その心には、反対の意識が芽生えている」
と感じたのだ。
「兄は父親に、反感を持っている」
と思いながら、反発しているのを見ると、今度は、
「兄を見ていると、父親が見えてくる」
という、それぞれに、
「反面教師」
というものが浮かんでくる気がしたのだった。
ただ、それを、
「兄貴も考えていた」
ということを、その時の康人は考えていなかった。
つまり、
「兄は弟を見て、弟は兄を見て、それおれ、父親を感じようとしていた」
ということである。
そういう意味では、
「家庭をほとんど見ていなかったのは、母親だっただろう」
ということが頭に浮かんでくるのであった。
それを母親も分かっているのかいないのか、とにかく、
「母親が何を考えているのか分からない」
というのは、家の男子すべては感じていたことだろう。
特に、父親は、その思いが強く、だからこそ、あまり母親に近づこうとはしなかったということで、
「父親は母親に、気を遣い、母親は父親に気を遣っている」
かのように見えて、それが、なんとなくぎこちなさというものを醸しだしていたのであった。
ただ、それは、
「表から見た」
ということであり、本当は、
「変に触れれば、一触即発になる」
ということを分かっていたからだ。
お互いに、憎しみをあらわにしたいとは思っていない。
できるなら、穏便に済ませたいと思っているだろう。
父親は、いまだに、
「威厳というものに、しがみついている」
ということであるし、母親は、
「もう、家族なんか、どうでもいい」
と思っているのだろう。
まったく見ている方向が違うので、
「二人が、交わることなどなかったのだ」
と、康人は感じていた。
そんな、
「谷口家」
というのは、とんでもなくぎこちない家族であり、実際に、
「家族だと言えない」
というほどに離散してしまっていた。
それを一番認めたくないとすれば、父親であり、逆に、離散したことを、自覚したいと思っているのは、母親であろう。
それを夫婦間で分かっているかどうかは分からないが、子供二人は分かっているようだ。
それだけ、両親に対して、
「家族でいたくない」
と思っているのだろう。
父親や母親の考えていることが分からない」
というのは、
「父親を見ようとすると、母親を意識して、母親を見ようとすると、父親を意識してしまうのだ」
ということから、
「二人の性格がまったくの正反対なので、それは、お互いのマイナス同士を足すことで、限りなくゼロに近い状態に近づけている」
ということであろう。
しかも、それが、
「決してゼロになることはない」
というのが分かっているので、厄介なのだ。
これがゼロになるということであれば、つり合いが取れるので、結局、うまくいくと考えられるのだった。
そんなことを考えていると、
「夫婦とうものがどういうものなのか?」
と考えられるということであり、
「最近、勘というものが働くようになった」
と思っている康人にとって、
「近い将来、何か嫌なことが起こるような気がするな」
という懸念があったが、それが何なのか分からなかった。
しかし、逆に。
「本当に嫌なことなのだろうか?」
とも感じる、
「何か面倒くさいこと」
という意識はあるのだが、それが、本当に嫌なことなのかどうか、自分でもよく分かっていないということになるのであった。
「おやじとおふくろ」
この二人が、どれだけ嫌いな相手なのかということを考えると、またしても思い出すのが、
「正月のあの一件」
ということであった。
「あの時の屈辱の涙、誰にお分かるわけはない」
という思いがよみがえってきて、しかし、
「家族なんだから、分かりそうなものだが」
と、父親と母親に対して感じるのであった。
しかし、不思議と怒りは、それ以上湧いてこない。
「怒りにも、限界というのがあるのか?」
と思ったが、
「あの時の怒りは、こんなものではなかったはず」
ということで、
「成長するにつれて、怒りが次第に、薄れてくるものなのではないか?」
と感じるようになってきたのだ。
それを思えば、
「家族って何なのだろう?」
といまさらながらに考えるのであった。
殺害されたる父親
父親が殺害されているのが見つかったのは、兄貴が就職活動のために帰省してから、2日後のことだった。
「そうせ、数日しかいないさ」
と、康人にそう言っていた兄だったが、昼間はほとんど表にいて、夜も遅く帰ってきて、ほとんど家族の誰にも顔を合わせなかった。
そんな時、遅く帰ってきた兄が、父の死体を発見したのだ。
そもそも、父親は、最近では、
「父親の権威」