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時代背景の殺人事件

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「家計を支えていたのが父親だけだったということで、権威を保てていたのに、母親まで働かなければいけなくなると、家庭のことを、夫婦分担ということになるが、今まで、家事などしたことがなくて、ただ威張り散らしているだけの父親だったので、家事などできないということが分かってくると、今度は、父親の威厳もくそもなくなってきたことに気づかず、それでも、家で偉そうにしている父親は、家族から見放されることとなり、家族の離散ということになる」
 ということである。
 どうしても、
「過去の栄光」
 というものに、しがみついているということになると、男はもろいもので、それこそ、
「融通が利かない」
 ということが露呈されるだろう。
 封建制度もそうであったが、
「絶対的な身分制度に守られて、威張り散らしていた人は、時代の変化に、まず間違いなくついていけないものである」
 だから、会社においても、バブル崩壊前であれば、
「年功序列」
 ということで、年齢が高いと、それだけ、出世していて上司であるということになるのだが、バブルが弾けると同時に、
「年功序列」
 というものも、
「終身雇用」
 というものもなくなってきた。
 つまり、
「今までの常識が通用しなくなった」
 ということである。
「銀行は絶対に潰れない」
 という伝説が崩壊してしまった時点で、
「今までの常識は通じない」
 ということが分かりそうなもので、本当は分かっているのかも知れないが、
「認めたくない」
 ということになるのであろう。
 それが、
「昭和時代の、おやじ」
 といわれる人たちであろう。
 マンガなどでおなじみの、
「カミナリおやじ」
 などというキャラクターである。
「盆栽弄りが趣味で、頭が剥げていて、いつも和服を着ている、背の小さなおじさん」
 というキャラクターで、
「いつも、盆栽いじりをしているところに、隣の空き地で、野球をして遊んでいる子供が、ホームランを打ったことで、カミナリおやじの家のガラスを割ってしまった」
 というシチュエーションがあるのだ。
 一つ不思議なことは、
「いつも、出てくるのは、カミナリおやじだけだが、家族はどうしたのだろう?」
 ということである。
 息子は、仕事にいっているのでいないのは分かりそうだが、嫁であったり、子供は家にいても不思議はない、
 特に、子供たちが空き地で遊んでいる時間なのだから、当然のごとく、
「放課後の時間」
 ということで、嫁さんは、
「家で夕食の用意をしている時間」
 ということではないか。
 夕食の時間なので、出てこれないということになるのであれば分かるが、どう見ても、一人暮らしにしか思えないのだ。昭和の70年代くらいは、まだまだ家族団欒の時代なので、そんなに一人暮らしの老人というのは、少ない時代だったのではないだろうか?
 そんな時代において、夕食どころか、顔を合わせる時間も少なくなってきた。
 すると、子供は子供同士の世界ができてきて、そのせいなのか、子供だけの秩序が突然生まれる形になる。
 そうなると、大人の世界を知らない子供が、自分たちの世界を作ると、大人に対しての偏見なのか、あるは、
「勝手に大人の世界を妄想するからなのか」
 自分たちの勝手な世界を作り、殻に閉じこもると、
「自分たちの気に食わない連中は、許せない」
 と思うようになる。
 その原点には、
「自分だけが正しいんだ」
 という気持ちになるという。
 もちろん、大人の世界だけが、正しいわけではない。どちらかというと、
「知らないだけに、憧れがある」
 そして憧れがあるだけに、その憧れの正体は、
「自分が正しいと思っても許される」
 という思いである。
 というのは、
「家庭の中で、絶対的な権力を持っているのは父親である」
 そして、その権力は、大人の世界を知っているから、家に帰れば、
「家では、自分が君主なんだ」
 ということになると思うのだろう。
 だから、子供であっても、
「大人の世界を知ってしまうと、家では、自分が君主になれる」
 という考え方から、
「子供の世界でも、大人を知ると、自分が君主になれる」
 という考えがあるということだ。
 そして、
「大人の世界の特典」
 そして、
「大人の世界の特徴」
 というものは、
「自分が正しいと思い、大人の世界というものを理解できれば、自分が君主になれる」
 という考えである。
 そして、それを昔の父親像というものを結び付けると、分かってくると考えるのだ。
 小学生の頃くらいに、
「バブル崩壊」
 というものを迎えると、
「それまでの、父親による封建的な絶対主義」
 というものを。
「嫌いだ」
 と思っているのは当たり前なのだが、憧れというものもある。
 それが、
「まだ自分が子供だから、大人に対しての憧れのようなものがあるからだ」
 と思うからなのかも知れないが、果たして、本当にそうなのだろうか?
 それを考えると、
「中学生になり、自分が大人の世界を覗くと、大人になったような気がする」
 ということで、その頃の不良というのが、大人の真似をしたりするという時代だったりするではないか。
 時代が進んでくれば、
「決して大人の真似をすることが、いいわけではない」
 と考えるかも知れないが、まさにその通りなのかも知れない。
 それは、
「大人の真似をしても、大人の世界に限界があると、今では分かるようになってきたので、どちらかというと、人とかかわりを持たない方が、世の中をうまくわたっていく方法なのかも知れない」
 と感じるようになったといってもいいだろう。
「父親の威厳」
 というものと、
「大人の世界」
 というものを比べた時、最初は、
「同じものだ」
 と感じていたが、中学時代になると、それが、今度は、
「少し違うものだ」
 と考えるようになった。
 その感覚は、大人になったという感覚で、大人になったと感じた瞬間、自分が背伸びしていると感じると、
「父親というものの威厳」
 に対して、
「自分も早く大人になって、そんな大人の威厳を示したい」
 という思いが小学生の時にあったのだが、同じ小学生でも、途中から感情が変わってきた。
「自分が大人になったら、今度は、そんな大人にはなりたくない」
 と感じるようになったのだ。
 そんな大人になるということは、
「嫌いな父親のようになる」
 ということで、そんな自分が、今、父親の威厳を嫌がっているというのは、おかしなものだと感じるのだ。
 だからと言って、
「せっかくある大人の威厳を、自分が子供の時に感じさせられたのだから、今度は順繰りで、自分が、大人になってから感じるというのは、悪いことなのだろうか?」
 と思うのだった。
 そう思うと、今度は、
「自分が嫌いな大人にはなりたくない」
 と思うのだ。
 しかも、大人になるためには、勉強して、高校に入学し、いい大学に入って、父親とは違う大人になると思うようになるのが、
「まだ、バブル崩壊前の子供だったのだろう」
 それが、今の自分たちの父親の、
「子供の頃だった」
 といってもいいだろう。
作品名:時代背景の殺人事件 作家名:森本晃次