時代背景の殺人事件
「犯罪動機に十分になりえる」
ということである。
それを考えると、
「犯罪というものは、当時の方が、複雑だった」
といえるのではないだろうか?
人間の心理を描く方が多く、平成から令和の刑事ものに比べれば、
「組織に対しての、反発であったり」
という捜査に対しての心理的な動きとは、発想が違うといってもいいだろう。
そんな時代において、歴史というものが、
「さかのぼっている」
といってもいいのだろうか?
「歴史は繰り返す」
ということで、ひょっとすると、過去の時代のさらに昔に、似たような発想が隠されているのではないだろうか?
八木刑事は、そんなことを考えるようになっていた。
下瀬刑事も、似たような発想を持っているのか、
「僕は、昔の探偵小説の時代の本を読むのが好きなんですよ」
といっていた。
というのも、
「昭和初期から、戦後すぐくらいまでの、いわゆる探偵小説と呼ばれるものは、本格派と呼ばれるものとしての、トリックや謎解きを、探偵が鮮やかに行うというものであったり、逆に、陰湿な犯罪であったり、猟奇的なもの、そして、耽美主義的な犯罪などを、変格派と呼んで、それらを探偵小説と称していた」
というのであった。
猟奇殺人などと、トリックを組み合わせる探偵小説も多く、ゴシック小説の側面を持ったものも結構あり、それが、平成の犯罪に起こった、
「バラバラ死体」
などという事件に結びついている。
といっても、そこにトリックが絡むものではなく、ただ、人間の精神の歪みが作り出した、当時の、
「変格派」
と呼ばれる探偵小説だったりするのであった。
特に、昔の小説は、
「SM」
などの変質者としての猟奇殺人を演出したりしていて、今の時代では、
「性的な変質が、犯罪に絡むだけということで、それが、トリックに結びつくことはない」
というのも、そういう猟奇犯罪を犯す人に、頭のいい人はおらず、カモフラージュというよりも、猟奇殺人を見せつけて、自分が頭がいいと思わせたいという、完全にズレた頭を持った人間による犯罪が多いのだった。
とはいっても、
「犯罪を簡単にドラマに置き換えて捜査するというようなことはしない。とは追っても、推理はある程度自由である」
逆に、
「ドラマの内容を推理に使ってしまうことは、卑怯だ」
というのは、
「ドラマを制作する人に対しての尊敬の念を抱いている人にとって、失礼ではないか?」
といえるのではないだろうか?
刑事課にやってきて、
「なるべく警察の捜査と違いがないようにドラマを作りたい」
ということで、警察に敬意を表している人もいるくらいである。
その敬意が、尊敬の念となってドラマを作ることになると、
「今まで、警察というと、あまりいいイメージがなかった」
という時代が確かにあった。
それを少しでも、よくしようと考えるのは、もっと先の時代になってからのことであった。
というのは、平成になって少ししてから、警察は、マスコットであったり、警察博物館などができたりして、
「市民に寄り添う警察」
という印象を深めている。
警察の印象が悪いのは、昭和の刑事ドラマなどでよくみられる、
「取り調べの場面」
などがひどいものではなかったか、
あの当時は、
「あれが当たり前だ」
ということで、
「警察に逮捕されると、自白させられるまで、拷問まではいかないが、それに近いことをされる」
という状況は、ドラマを見ていると分かるというものだった。
よく言われるのが、
「かつ丼」
を取り調べ中に食べたり、
「タバコを吸って、その息を吹きかけたり、さらには、ライトを顔の前に当てて、自白を強要したり」
などが多いというものだ。
もっとも、昭和の警察の取り調べの場面は、
「やくざ
や、
「チンピラ」
などが相手ということで、相手も、警察に対して、本当に極道という対応をするので、
「どっちもどっち」
ということであろう。
だが、ドラマとしては、
「犯人を捕まえないと、一般の善良な市民が、ひどい目に遭うので、拷問してでも、白状させて、一般市民を安心させる」
ということが主題だったのだ。
だから、
「犯罪を許してはいけない」
ということが、テーマになっていて、よく見ると、
「犯罪に加担している連中には、ろくな連中がいない」
ということの表れだという状態を描いているのであった。
それを思えば、
「警察の捜査というのは、一般市民を救うためということで、少々のことは許される」
ということを、ヒューマンドラマとして描くことで、
「警察の捜査の正当性」
というものを証明しようというのが、そのドラマ制作として見えているので、どうしても、平成、令和時代の人にとって、
「昭和の刑事ドラマは、どうにも胡散臭い」
と感じさせるのだろう。
犯人は誰だ?
確かに、
「第一発見者を疑う」
ということは間違いではないのだが、あまりにも、
「マニュアル通りの捜査」
というものをしようとすると、抵抗があるというのは、無理もないことだ。
時代が平成になり、さらいそれから、数年する頃には、警察も、だいぶ変わってきた。
これは、
「世間に警察が追いついてきた」
という場面と、逆に、
「警察が世間においついてきた」
という場面とがある。
どうしても、地域によって、時代背景が少し微妙にずれているということがあるようであるが、
「警察が世間においついてきた」
ということとしては、
「まず、タバコの喫煙問題」
というものがあるのではないだろうか?
平成になった頃から、街の公共交通機関などを中心に、
「嫌煙権」
というものが叫ばれるようになったということから、
「駅に禁煙コーナーができたり、電車内で、4両編成であれば、最後部が、禁煙車」
というような時代に入ってきた。
しかし、これは、まだ、
「段階的な禁煙」
ということの手始めということであり、
「その時代が世間でなじんでくると、今度は、禁煙コーナーが喫煙コーナーとなり、基本的には、禁煙」
という状態に変わってきたのだ。
この頃になると、会社の事務所でも、ほとんどのところは、禁煙となり、喫煙コーナーが、会社の小部屋として用意されている。
ということであったりする。
考えてみれば、昔は、学校の教員室であったり、会社の会議室でも、モクモクとした煙が上がっていて、
「会議室というと、灰皿に吸い殻が山のようにたまっている」
というのが当たり前だった時代だったのだ。
しかし、同じ時代に、警察の取調室というと、まったく同じ感じで、刑事が吸ったタバコの吸い殻が、灰皿からこぼれるくらいになっていて、それが当たり前だという時代だったのだ。
これは、
「警察が世間においついた」
といってもいいだろう。
それとは逆に、警察の捜査は、今までのような拷問は利かなくなってきた。そもそも、「自白というものに、どこまで信憑性があるというものか?」