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二重人格国家

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 その理由というのは、
「体温よりも、気温の方が高い」
 というのだから、それも当たり前だろう。
 お風呂に浸かっている時、熱い湯船を冷まそうとして、風呂を掻きまわすと、
「却って熱くなった」
 という経験をしたことのない人は、ほぼいないだろう。
 つまりは、
「人間の体温よりも熱い状態になった」
 ということで、例えば、
「風呂の最適温度」
 ということで、
「40度ちょっと」
 と考えると、
「ぬるま湯くらいの大気の中で暮らさないといけない」
 ということになり、少しの時間くらいならまだいいかも知れないが、それが数時間ともなると、不快指数どころの問題ではなくなるだろう。
 そんな酷暑といわれるような暑さの中、
「地球温暖化現象」
 なる言葉が言われるようになってきた。
 そのために、
「自然環境の根本的な改善」
 というものが叫ばれるようになり、
「結果、どうすればいいのか?」
 ということが、
「全世界的な問題」
 ということになった。
 それが最近ではさらに大きな問題となり、
「地球沸騰化現象」
 とまで呼ばれるようになった。
 世紀末では、気温が35度ということで、
「猛暑日」
 といわれ出したのだが、今度はそれにとどまらず、
「37度以上」
 という酷暑の日が、
「年間に数十日ある」
 などという状態になってきたのであった。
 それを考えると、
「最近では、森林火災などが、さらにその沸騰化を加速させている」
 ということになり、
「世紀末に言われていたことが、どんどん加速していき、当時の計画では、まったく間に合わなくなってきている」
 ということであった。
 それこそ、
「地球の寿命」
 というものが、切実な問題となり、それ以前に、
「生物が住める環境ではない」
 ということになり、それこそ、
「国破れて山河在り」
 などというどころではなくなるだろう。
 昔から、人類の滅亡として、
「宇宙からの侵略論」
「人間同士の核戦争によるもの」
「自然破壊」
 といろいろ言われてきて、それぞれに切実ではあったが、実際の今の可能性として、
「信憑性があり、着実だ」
 ということであれば、
「自然破壊」
 ということになるであろう。
 そんな今の時代、
「自然災害」
 などというのは、当たり前のように起こっている。
 森林火災なども当たり前のようにあるが、降雨期による、
「大水害」
 であったり、
「地震大国」
 と呼ばれる日本としては、地震などの災害などは、日常茶飯事である。
 何といっても、
「地球沸騰化における、南極の氷が溶ける」
 などということでの、
「住める範囲が狭くなってくる」
 という問題も切実であろう。
「そもそも、人が住んでいない地域があるではないか?」
 ということであるが、
「人が住んでいないのは、人が住める環境にないからだ」
 ということで、この自然災害などによって、災害によるものではなく、元から、人が住める環境にないところがあったものが、さらに増えてくるとなると、それこそ、
「地下都市」
 であったり、
「海底都市」
 さらには、宇宙開発を成功させて、
「宇宙空間都市」
 などという、まるでSF小説や特撮のような、それこそ、
「夢物語」
 というものが現実味を帯びてこないと、
「人類滅亡の方が、はるかに早い」
 ということになりかねないということである。
 それを思うと、
「人間というものが、いかに因果応報に向かっているか?」
 ということになる。
 それも、前章のように、
「人間がいかに、おこがましく、地球上のすべての生物に比べて、高等だ」
 ということの因果からきているということであろう。
 それが、
「神に近づこう」
 ということが、因果となり、言葉が通じなくなるという、
「応報」
 ということになるのであろう。
 そんな暑さのせいか、
「最近の夏は、最低気温が30度を下回らない時もある」
 といわれるほどに、ひどい状態になっていた。
「何といっても、午前8時くらいから、すでに、30度を超えている毎日なので、最低気温が、30度をくだらないという日が出てきても、無理もない
 というのも、当たり前だといってもいいだろう。
 つまりは、
「最低気温が、真夏日」
 ということである。
 そんな日は、きっと最高気温は、
「体温よりも高い」
 という時期なんだろう。
 スポーツにおいて、昔、特に昭和の時代に言われていたことが、
「今では間違いだった」
 とされていることも結構ある。
 よく言われていたこととして、
「部活中に、水を飲むな」
 といわれていた。
 今の時代は、
「熱中症にならないように、水分補給をこまめに」
 といわれるが、昔は、
「水は絶対に飲むな」
 といわれていた。
 それは、別に、
「しごき」
 であったり、
「苛め」
 ということではなく、昔なりに、理由はあったのであった。
 その言われていた理由というのが、
「水を飲むとバテる」
 ということだったからである。
 確かにそれはいえることで、水を飲みすぎると、急激な運動をすると、
「そりゃあ、身体が拒否反応を起こして、お腹が痛くなったりするだろうよ」
 ということである。
 だから、本来なら、
「飲みすぎなければいいだけのことであるが、確かにバテるということもあり、水は御法度だった」
 ということである。
 しかし、もっといえば、
「飲みすぎるから、お腹が痛くなったり、バテたりするわけで、何事も、過ぎたるは及ばざるがごとし」
 ということになるわけである。
 そういえば、今の時代は、
「熱中症」
 というが、昔は、
「日射病」
 といっていたではないか。
 似たような話で、
「似たようなことでも、時代とともに、言葉が変わってしまった」
 という例として、今では、
「不登校」
 といわれているが、昔は、
「登校拒否」
 といっていたではないか、
「不登校」
 にしても、
「熱中症」
 にしても、それぞれで、言葉の意味が微妙に違うのだが、言葉がまったく違えば、意味合いがまったく違っていると思わされるのも、仕方のないことであろう。
 それが、まるで、スポーツにおいて、
「水を飲んではいけない」
 といわれていたことが、まるで迷信だったとばかりに言われているが、それは本当にそうなのだろうか?
 あくまでも、
「昔の時代だったから、水を飲まなくても問題なかった」
 ということではないのだろうか?
「水を飲まなくても、昔は、我慢もできたし、今は、できなくなった」
 というのが真相であり、その方が信憑性があるだろう。
 だから、昔の人が、別に無知だったわけでも、迷信を信じていたわけでもない。
 もっとも、今、昔のように、
「水を飲むな」
 ということになれば、
「救急車が何台あっても足りない」
 ということである。
 何といっても、昔は毎日のように、小学校では、朝礼が校庭で行われていたではないか。
 それなのに、倒れる人はそんなにもいなかった。むしろ昔であれば、
「ひ弱な少年」
 というレッテルを貼られるくらいで、我慢して立っていようとして、我慢できる時代だったのだ。
 今のように、
作品名:二重人格国家 作家名:森本晃次