二重人格国家
特に、人間が、
「生きるため以外でも、平気で動物を殺す」
ということであるが、特に問題なのは、その動物が、同類である、
「人間」
というものなのだ。
だから、法律の中に、
「殺人罪」
というものがあり、その殺人罪が、一番厳しい罰則があるということになるのである。
そこにあるのは、確かに、
「元々は、生きるために、水や土地を求めての争いが高じたものだ」
といってもいいだろう。
しかし、そのうちに、権力などを持ちたいという気持ち、ただ。それも、
「統治するために必要なもの」
であったことは確かだろう。
確かに、人間を統率するためには、それだけの権威という力が不可欠である、
「力のない人間のいうことを誰も聞かないから」
ということであり、じゃあ、
「なぜ、統治が必要なのか?」
ということであるが、それは、
「統治がなされないと、人間が個々に争ったりして、戦いや殺し合いが絶えないからだ」
ということになる。
これは動物にもいえることだが、動物の場合は、それをうまくコントロールできている。
それが、
「本能」
というものの力によるのだろう。
だが、人間だって動物なのだから、
「本能というものを持ち合わせている」
ということである。
人間が本能を使って、争いが止まれば問題ないのだが、人間の場合は、本能だけではどうしようもない。
では、そこに何があるのかというと、
「欲望」
というものである。
ただ、これは決して悪いというわけではなく、
「欲望というものがあるからこそ、人間は、自分たちの頭で成長を遂げてこれる」
ということであった。
人間が、
「争い」
というものは、人間が発展するための能力の一つとして、不可欠なものであると考えると、
「それも致し方がない」
といえるだろう。
ただ、人間社会の中で、どうしても、避けて通れない大きな問題であることはいえるのだ。
ということで、
「人間社会から、永遠に亡くならないのは、同胞である人間に対しての殺りくである」
といえるだろう。
「戦争」
であったり、
「犯罪」
などというのはなくならない。
つまりは、それこそ、
「人間の中から、欲望というものがなくならない限りは、戦争も犯罪もなくならない」
ということになる。
しかし、人間の進化は、
「欲望という感情が不可欠だった」
ということを考えると、それこそいたちごっこのように、
「善と悪」
というものが、錯綜を繰り返し、人間の中で、永遠にその葛藤がなくなることはないだろうといえるだろう。
そうなると、
「悪というものが、殺人であったり戦争だ」
ということになれば、善というものもあるだろう。
その善というものが、
「人情ということになるのではないだろうか?」
それが、愛情というものであり、
「家族愛だったり、近しい人に対しての情というものになる」
といってもいいだろう。
「戦争や殺戮がなくならない」
という発想の中に、この
「人情」
という発想が含まれているともいえるのではないだろうか。
というのは、
「人間というのは、一人では生きられない」
といわれている。
つまり、
「親や家族、親友など」
生きていくうえで不可欠な人たちに対して、愛情などという情が湧くということになるのである。
そんな人たちが、殺戮や戦争によって、
「訳もなく殺される」
ということになると、その人に情が湧いていた人は、
「敵を討ちたい」
と考えることであろう。
いわゆる。
「敵討ち」
「仇討ち」
などといわれる、
「復讐」
という感情である。
基本的に、今の時代では、法律的に、
「仇討ち」
というものは許されていない。
つまりは、
「個人に個人を裁くことはできない」
というものであり、日本のような、
「法治国家」
においては、刑法というものをその法的な手段として、それを判断するために、
「裁判」
というものが行われ、
「司法が、答えを出してくれる」
ということになる。
ただ、そこには問題も含まれていて、
「被害者がいれば、加害者がいる」
ということで、
「加害者に対して、大目に見るような、情状酌量が大きければ、被害者の残された家族は、大いに不満であろう」
逆に、
「加害者に過剰な裁定が下れば、そこか、公平さを欠いた裁判ということになり、加害者の家族の思いだけではなく、第三者として中立な立場の人の中には、何か、納得できないいやらしい思いが残ることになった」
という、後味の悪さが残るということではないだろうか?
弁護士や検事などのように、
「法による裁定」
というものにかかわっている人は、
「公正というものがその理念だといってもいいだろう」
しかし、
「罪を憎んで人を憎まず」
という感情は必要で、この言葉には、裁判という意味では、
「大いなる矛盾を含んでいる」
といえるだろうが、だからと言って、裁判は、
「それ以上でも、それ以下でもない」
といえるだろう。
そして、
「仇討ち」
などというものを認めると、いたちごっこを繰り返すということになるだろう。
なぜなら、
「仇討ちをされる相手にも、情をもっている人というのもいる」
というもので、その人が今度は、情を持っている人を殺したということで、復讐心というものを抱けば、このまま、永遠に
「殺意の連鎖」
というものが消えることはないだろう。
それが、一種の、
「合わせ鏡」
のようなものだといえるのではないだろうか?
自分の前と後ろに鏡を置いた時、永遠に自分が写り続けるというもので、その姿はどんどん小さくなっていくのだが、それは、
「限りなくゼロに近い」
というものであり、決して、ゼロになることはないというものだ。
そして、それが、無限というものを導いているということで、無限の存在というものを証明しているかのようであると考えられる。
その発想とよく似たもので、それが、
「マトリョシカ人形」
のようなものではないだろうか?
それを考えると、
「それが、人間というものの性といえるのではないだろうか?」
K市の事情
ある日、その事件は、突発的に発生した。
季節は、これから秋に向かおうという時期で、実際には、もう10月にもなっていたが、最高気温は、まだ30度を下回ることはなかった。
「残暑」
というには厳しい時期で、昔でいえば、
「真夏の暑さ」
あるいは、
「うだるような暑さ」
という表現で考えれば、33度を超えたくらいから、そんな表現であっただろう。
今であれば、33度などというと、9月でも、普通にある時期である。
そもそも、35度を超える時期というと、
「猛暑日」
といわれるが、そんな言葉は、少なくとも、30年前くらいにはなかったものだった。
それが言われるようになったのは、世紀末に近い頃であっただろうか、7月に入った頃に急に暑さが酷となり、
「呼吸するのも苦しい」
というくらいの暑さを感じていると、そのうちに、
「風がある方が、暑さを感じる」
というくらいになってきた。