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二重人格国家

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 ということであるが、よく考えると、元々が無限なのである。
 つまりは、
「無限から整数の何を割ったとしても、出てくる答えは無限でしかない」
 ということになるのだ。
 しいていえば、
「無限から無限を割った場合。答えが1なのか、それとも無限なのか分からない。ただ、ゼロとマイナスではありえない」
 というだけのことなので、こちらも、
「答えは無数にある」
 ということだ。
 これが、
「フレーム問題」
 というもので、それをロボットに組み込むことはできない。
 ということは、人間の創造主は、
「人間など比較にならないほど高等な、神様的な存在のものなのだろう」
 ということになるのだ。
 つまり、人間というものが、
「一番だ」
 といってもいいだろう。
 しかし、その人間が、
「自分たちにできないこと」
 特に、
「肉体的に不可能」
 と思わるようなことをロボットに託すという発想から生まれたロボットというものに、人工知能を入れて、
「自分で判断できるようにする」
 というのは、それこそ、
「神を冒涜する発想」
 ということになるのだろうか?
「神を冒涜する」
 ということで思い出すのは、旧約聖書の中に出てきた、
「バベルの塔」
 の話である。
「天にも届きそうな塔を、当時のバビロニア王であるニムロデ王は、バベルの塔の横で、自分が神になったかのように宣言し、天に向かって、矢を射った。そのことが神の怒りを買い、バベルの塔は、一気に破壊され、そして、人民は、言葉が通じないようにされ、そのまま世界各国に知里尻にさまようことになった」
 というのが、
「バベルの塔」
 という話の内容である。
 いくら人間であろうと、創造主である神に近づいたり、紙をもしのぐ態度に出るなどおこがましいということであり、さらには、
「人間が、創造主になどなれるわけではなく。創造主は、神以外にはありえない」
 ということを示しているのだろう。
 さらに、
「人間が、その肉体において、寿命のある身体を持っている」
 という欠点を補う発想として、以前の特撮初期には、その問題に直面するかのような話を書いた脚本家がいた。
 内容としては、
「人間が消失する」
 というところから始まるお話だったのだが、
「その焼失した人間は、宇宙の星に連れていかれて、そこで、そこに住んでいる生物の脳を、地球人の若い肉体にそのまま移植する」
 ということだったのだ。
 その星の科学力は、すごいところまで進んでいて、
「彼らの寿命を、自在に伸ばしたりすることに成功はしているようなのだが、生身の肉体の衰えに関しては、どうすることもできない」
 ということであった。
 それをどうにかするために、彼らは、
「地球人の肉体に目を付けた」
 ということである。
 結局最後は宇宙人の計画はとん挫することになったのだが、この発想は、それこそ、
「その時の宇宙人を、まるで未来の人間に見立てている」
 ともいえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「結局、人間というのは、一番高等な動物である」
 ということに変わりないが、ただ。それは、
「地球上でだけいえることだ」
 ということであり、
 さらに、
「人間が、ロボットを開発して、人間以外で、人間のために役立つロボットを作り。そして、そのロボットが自分の判断で行動するという人工知能を入れ込むということは、不可能なのではないか?」
 ということであった。
 そこで、考えられるのが、
「特撮初期に作られた、前述の発想」
 ということになる。
 つまり、
「人間の脳を、ロボットの身体に埋め込む」
 という考え方である。
 つまり、
「アンドロイドではなく、サイボーグ」
 という形である。
 人間の脳をロボットに移植すれば、脳の寿命が尽きようとも、肉体だけは残る。
 逆にいえば、
「寿命を延ばすことができれば、肉体は永遠だ」
 ということになる。
 そもそも、
「脳が死んでしまえば、身体の機能は停止するので、結局すべてが死ぬ」
 ということになる。
 そして、人間の死因の中で、そのほとんどが病気ということだが、脳関係以外は、サイボーグなのだから、病気になるということはない。
 それを考えれば、
「フレーム問題」
 というものも、
「ロボット工学三原則」
 というものも、なくなるということになるのではないだろうか?
 どちらも、
「人工知能」
 というものが問題だったのだが、その人工知能というものが必要なくなり、人間そのものの脳なのだから、問題ないという考え方だ。
 しかし、本当にそうなのだろうか?
 一番の懸念として、
「人間の脳は、人間の身体に宿っているということで、人間の脳としての役割を果たしている」
 といえるのではないだろうか?
 つまり、身体がロボットということになると、そこに、何等かの、
「拒否反応」
 というものはないのだろうか?
 ということである。
 例えば、
「内臓移植」
 などということがあるではないか。
 そのためには、
「ドナーの選定には、細心の注意が必要で、完全に適合する人でなければ、移植しても、苦しみは続く」
 ということになるのである。
 それだけ、
「身体の臓器同士であっても、その拒否反応は未知数だというわけで、それをつかさどっている人間の中にある装置というものが、脳だ」
 ということになるのであろう。
 移植をしないと、
「このまま放っておけば、確実に、半年以内に死んでしまう」
 ということが分かっている場合は、藁にも縋る思いで、
「移植」
 というものを考えることであろう。
 もちろん、サイボーグを作るなどという技術は、今の人間にはない。あくまでも、
「近未来」
 とは言われながらも、
「遠い未来」
 としか思えないのは、
「ロボットという発想が生まれてから、かなり経つのに、分かったことは、フレーム問題であったり、ロボット工学三原則というものが、その開発のネックになっていて、研究者の心に、開発は無理なのでは?」
 ということを感じさせるようになっているということである。
 それを考えると、
「人間というものが、本当にそこまで高等な動物なのだろうか?」
 ということである。
 そういう意味で、
「動物の中で、人間だけが、生きるため以外で殺戮を繰り返す」
 といわれている。
 他の動物は、
「弱肉強食」
 ということで、他の動物を食べるが、それは
「生きるため」
 ということであり、人間だって、食事をしなければ、生きていけないではないか。
 これも、
「弱肉強食」
 の一種として、
「自然の摂理」
 という、
「自然界の循環」
 のようなものである。
 だから、人間も、
「生きるために、食料となる動物を屠殺して、それを食事として、生活の一部としている」
 それを、無意識に行っているから、
「弱肉強食」
 という発想はなく、その分、
「罪の意識」
 などというのも、毛頭ないということになるのだ。
 だから、
「人間は、自分たちが一番高等な動物であるから、少々のことは許される」
 という発想があるのだろう。
 旧約聖書における、
「バベルの塔」
 という話はその戒めではないだろうか。
作品名:二重人格国家 作家名:森本晃次