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静岡のとみちゃん
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悠々日和キャンピングカーの旅:⑪信州・富山の旅

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 そして1927年の大火で焼失し、殆どの家が建て替えら、道路側から見ると二階建ての家々が、川側から見ると三階建てという家並みになり、かれこれ100年以上の歴史を持つ。
 なお、現在の建築基準法を満たしていないため、修理は出来ても、建て替えることはできないとのことだ。

 行人橋のすぐ上流に歩道橋があり、そのあたりからの写真も撮りたかったが、その橋の袂には駐車できそうなスペースはない。「ジル」に戻って、再び行人橋を渡って、歩道橋の反対側まで行くもやはり駐車スペースはなかったが、その近くの和菓子屋の了解を頂き、その店舗の駐車場を使わせて頂いた。
 歩道橋の袂にはちょっとしたスペースの親水公園があり、そこから川岸まで下りることができ、見上げる感じで崖家造りの写真を撮ることができた。

 親水公園まで戻ってきたとき、道の斜面側に、「中山道 古い町並みへ 古民家再生建造物群」の表示があり、行ってみることにした。
 1分くらいで登りきると、古い家の町並みに出た。そこは上の段という町名で、昭和2年の大火により多くの家が焼失した際に、ここを中心に古い家並みが残り、旧福島宿の面影を今に残しているという。
 先ずは「まつり会館」に入館した。木曽福島の踊りや祭りなどの伝統行事に関する展示があり、説明書きをひととおり読んだところ、ここの祭りでは、神輿(みこし)を立てたり、逆さまにすることもあり、どうやら奇祭のようだ。
 そのあとは、古い街並みを散策した。路地の奥に山門が見えたので向かうと、大通寺という武田信玄とゆかりのある寺だった。
 中山道の町並みを味わったあとは「ジル」に戻り、木曽川に沿った最大幅が500mほどの南北に長い木曽福島の街からR19に戻り、更に南下を始めた。

 「赤沢森林鉄道」には、中山道の38番目の旧上松宿(あげまつじゅく)からR473に入り、更に林道に入ってゆく合計約15kmの道のりだ。
 上松宿は江戸時代から檜(ひのき)の集散地として発展した町だった。ところが、ここも、昭和の頃の大火で町並みの殆どを焼失してしまったが、幸いに火災をまぬがれた場所があり、往時の面影が今も残っているとのことだった。
 森林鉄道を早く見たい気持ちが募り、その古い町並みは次回の旅の際に訪れることに決めた。その時、木曽福島の関所を訪ねていなかったことを思い出し、呆然としたが・・・、そこも、次回の旅の時に行くことにした。

 400番台の国道、そして林道になるため、「ジル」が走り易い道であることを祈りながら、「赤沢森林鉄道」に向かった。
 次第に道幅が狭くなり不安感が高まった。センターラインが引かれている道幅になった場所で偶然、伐採した檜を運ぶ2台の大型トラックとすれ違い、センターラインのない場所では対向車はなく、ラッキーだった。
 もうひとつのラッキーだったのは、大型トラックが走るため、3mを超す車高の「ジル」の屋根が木の枝に擦れることはなかったことだった。
 さすがに山深くなってきた。木の高さも高くなり、うっそうと茂っている。横を谷川が流れ、くねくねした林道を走りながら、標高が上がって行くのを感じた。

 いきなり視界が開けた場所は、「赤沢森林鉄道」の有料駐車場で、屋根に取り付けたソーラーパネルでの充電を考えて、日向に「ジル」を停めた。
 標高は既に1,100mを超えているので、半ズボンからGパンに履き替え、Tシャツの上にウィンドブレーカーを着て、森林鉄道の乗車口に向かった。
 往復25分の料金は900円、乗車券は檜の板でできた大人の手のひらサイズの切符で、改札パンチが入っていた。
 出発時刻までは15分くらいあったので、無料の「森林鉄道記念館」に入り、米国製のボールドウィン社製の蒸気機関車「B1リアタンク」の写真を撮った。現在、ボイラーが壊れているため静態保存とのこと。やがて11:00の出発時刻になった。

 改札口の目の前は、ディーゼル機関車が牽引する何台もの客車の最後尾で、多くの乗客は皆、ディーゼル機関車のすぐ後ろに座るためなのか、ホームを足早に歩いて前へ前へと進んでいった。私は、最後尾の客車の最後の席に座った。
 最後尾から機関車の後方に連結された車列を見るのが好きで、特に、カーブに入ると、それがうねうねと形を変えるのが堪らない。私はオタク? いや、私の嗜好だ。走る車列が一番きれいに見える姿が好きなだけだ。そうそう、仲間と走るバイクツーリングの際も、最後尾から、バイクの列を見ながら走るのが好きだ。

 ディーゼル機関車が動き始めると、連結されている前の客車から次々に、牽引の軽いショックが伝わり、私が乗っている最後尾の客車まで届くと、全体が前に進み始めた。運行距離2.2kmを約10分で、谷川の横や崖の下をゆっくりと走り、日本三大美林のひとつの赤沢自然休養林の澄んだ水と空気の中で、十分過ぎるほどの森林浴ができた。
 復路は、ディーゼル機関車が複線を利用して先頭から最後尾に移動して、連結し直して出発。往路とは異なり、目の前のディーゼル機関車の力強さや熱を体で感じることができた。

 この「赤沢森林鉄道」は、軌道(動輪の幅)が762mmの軽便鉄道だ。
 ちなみに、新幹線の軌道は広軌(標準軌)で1,435mm、軽便の約2倍だ。そして一般的なJRの軌道は狭軌の1,069mm、軽便の約1.5倍の幅なので、この数値からでも、軽便は如何に小さな鉄道なのか推量できるはずだ。
 軽便ファンの私は今回を含めて、4回目の乗車になる。最初は黒部トロッコ電車、三重県の三岐鉄道北勢線、北海道遠軽の雨宮21号、そしてこの赤沢だ。どれも、沿線の風景も含めて特徴があり、気に入っている。

 森の中の軽便鉄道を下車してからは「森林鉄道記念館」で、放映されているビデオを丸々1本、見てしまった。「赤沢森林鉄道」は60年の歴史を持ち、SLは35年間も走り、その後はディーゼル機関車にバトンタッチしたとのことだった。加えて、木曽の檜の歴史も知ることができた。

 SL好きで、加えて軽便鉄道好きな私は改めて、「赤沢森林鉄道」について少し調べた。
 木曽の木材の運材は、古くは河川を利用していたが、水力発電所の建設により鉄道輸送にシフトし、今現在はトラックによる運材だ。
 その歴史の中で、森林鉄道は1916年に開通し、やがてその軌道は容易に敷設できることから、この地域だけでも500kmを超える規模に成長した。
 機関車については、世界中の蒸気機関車からアメリカのボールドウィン社製の「B1リアタンク型蒸気機関車」を選択し、10台が輸入された。
 森林鉄道は当初、木材の運搬専用だったが、山奥にまで行き届いた鉄道網は、山間地域の住人の交通手段にもなっていった。
 太平洋戦争の頃、蒸気機関車の燃料となる石炭が不足し、木材の枝や端材を使うようになってからは、煙突から火の粉が散り、行く先々で火事になってしまうリスクが出てきた。そこで、火の粉を散らさない巨大な煙突が考案され、木曽森林鉄道独特のスタイルの蒸気機関車になっていった。
 戦時中に老朽化した蒸気機関車は解体され、鉄材として供出され、戦後には3台になってしまった。