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天才のベストセラー小説

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「普通であれば、自分だけのドッペりゲンガーというものを意識する」
 ということだけになるのだろうが、実際には、
「他人のドッペルゲンガー」
 を見ることになる。
 それが、結局自分のドッペルゲンガーを解明するヒントであり、自分だけを見ていてはいけないということになるのであろう。
 ここに、佐伯陽介という少年がいる。
 彼はまだ小学校の一年生だった。彼は自分のことを、
「天才だ」
 と思っているようで、それをたまにまわりの大人に話しては、苦笑いをされていた。
 もちろん、親にも話をしたのだが、親は顔を真っ赤にして、
「そんなことを他人の前で話してはいけません」
 と言われるのであった。
 それを聞いた佐伯少年は、
「どうしていけないの?」
 と聞く。
 その様子は、まさに小学校一年生の少年そのものなのだが、それだけに、両親は何と答えていいのか困るのだった。
「それはそうでしょう。自分のことをそんな天才だなんていえば、まわりの人からバカな子だと思われるだろうし、同級生のお友達からは、バカにされて、下手をすればいじめられたりするわよ」
 というのだった。
 それは当たり前のことであり、そんなことをいえば、
「自慢をしている」
 と思われて、相手にされない。
 大人からは、
「バカな子供だ」
 と思われ、同級生からは、変なマウントを取ってくるように思われて、嫌な思いをさせるに違いないからだ。
 子供の世界では、そんなことは許されない。
「子供には子供の世界」
 というものがあり、それは、大人に教えられるものではないだけに、形が見えないものではないだろうか。
 しかし、子供にもそれは見えないので、誰も何もアドバイスもできない。だから、できてしまった世界からはみ出したものは、ハブられるということになるのも、当たり前のことであろう。
 陽介少年が、
「俺は天才だ」
 と、どうしてぬけぬけといえるのか?
 それを分かる人は誰もいない。
 だから、まわりの大人はそれが分かっているから、苦笑いをしてやり過ごすしかないのだが、親とすれば、子供がバカにされるのを放っておくわけにはいかない。
 それは、
「自分がバカにされているのと同じだからだ」
 ということになる。
 大人の世界にある、
「体裁」
 とか、
「世間体」
 という考え方は、今に始まったことではない。
 特に、
「子供を見れば、親が分かる」
 とよく言われているので、昔などは、
「教育ママ」
 などという親が存在し、子供の世界に、巻き起こる競争に対して、負けないような子供を作るという意味での、
「教育ママ」
 というものだったのだろう。
 ただ、それも、子供の成績だけがすべてではなかった。
 子供の成績や順位が、大人の世界、特に、母親連中の世界では、
「ランク」
 と呼ばれるものとして評価されることもあったのではないだろうか?
 子供の成績がよければ、親が自慢をするというのは、昔からあったことだ。
 しかし、
「子供が自慢をする」
 ということはあまりなかっただろう。
 親が自慢する分には、そうでもないが、子供が自慢をすると、子供の世界では、角が立つと、母親は思っていたのかも知れない。
 だから、子供の世界でぎくしゃくしてしまえば、それが大人の世界に影響し、
「本当は頭がよくて、成績もいいのに、子供の世界で自慢してしまったために、子供のランクが下げられることで、親である自分が肩身の狭い思いをして、せっかくの息子の順位によっての立場が、使えなくなり、逆に、親子ともに、その世界からはじかれてしまうことになるであろう」
 ということであった。
 それは、昔から、親の頭にはあったことだろう。
 だが、実際には、
「自分から自分のことを天才だ」
 などといって自慢する子供が少なかったからなのか、問題になることもなかった。
 というのは、親が口にする話題でもないし、実際に起こっていることではないのであれば、
「意識するという人はいたかも知れないが、実際には、問題になることはない」
 ということなので、誰も、そのことに触れるということもないに違いない。
 それを考えると、
「そもそも、子供の世界を、大人のランク付けなどというものに使おうという、教育ママというようなものがあるから、このような問題が、本当はあったはずなのに、陰に隠れてしまっていた」
 ということになるのだろう。
 今でも、子供が自分から、
「俺は天才だ」
 ということはなくなった。
 それだけ、
「子供の世界も、複雑になってきた」
 ということであり、
「苛め」
 というものが、小学生の中にも入ってくるようになると、小学生高学年くらいでは、
「なるべく目立たないようにしよう」
 という意識が働いてくるのだった。
 本来であれば、小学生の高学年というと、
「目立ちたい」
 という気持ちがあってしかるべきではないだろうか?
 早い子は、それくらいになると、思春期というものに入り込んでくるのであって、一緒に、
「反抗期」
 というものも出てきたりする。
 さらに、子供の世界では、その成長に個人差があることで、早熟な子は、
「早く大人になった」
 ということを自他ともに感じるようになり、まだ成長が進んでいない子供から見れば、成長著しい同級生は、
「クラスの中で、自然と輪の中心にいる」
 というような感じになるのではないだろうか。
 考え方も、大人に近くなっていくわけだが、それは、思春期という、
「乗り越えなければいけない壁」
 のようなものがあり、それを、まわりはまだ子供だから、どう乗り越えるかということを見ることはできない。
 つまり、
「自分しかいないということで、その成長は、孤独なものなのだ」
 ということになり、ある意味、
「本当の大人になった」
 といってもいいだろう。
 しかし、世の中、
「出る杭は打たれる」
 ということがよく言われるようになっていて、
「中学生で中には不良になる子もいる」
 というような状況が出来上がってしまい、成長の早い子は、特に、まわりから持ち上げられることで、自分だけが偉くなったような気になるのだ。
 本当の大人であれば、それがどういうことなのかを、少しは考えられるだろう。それが経験というもので、やはり、経験の薄さが、致命傷のようになってしまい、お決まりの不良コースということもあるのだろう。
 そんな大人になるために、障害になるのが、
「その大人たち」
 である。
 大人というのは、
「えてして子供を自分たちの尺度に収めたい」
 と思うものだ。
 それが、子供にはなぜか分からない。
 子供が思うのは、
「親だって、爺さんばあさんから、同じような教育を受けて、理不尽な気持ちになるだろうから、自分が大人になったら、親のような教育は絶対にしないようにしよう」
 と思うだろう。
 中には、大人になるにつれて、大人のやっていることに正当性を感じ、
「ああ、中学時代のあの時、親からかなり言われたが、あれはあれで正しかったんだ」
 という気持ちになれるかどうかということである。
 だが、大人になるにつれて、そんなことを感じるようなことはまったくなく、さらに、