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欲による三すくみ

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 ただ、それでも、小説を書けるようになるまでに、だいぶ努力が必要で、場合によっては、
「考え方を変えないと小説を書くことはできない」
 というように考えるようになったのだった。
 そして、書けるようになると、今度はいろいろなプロの作品を読んだり、ハウツー本などで勉強し、それまでは、
「ただ、最後まで書ければいい」
 という段階から、今度は、
「プロになるための階段」
 というものに差し掛かっているということを感じるのであった。
 小説を書くということは、
「段階を踏まなければできない」
 ということであり。それは、他のことでも同じには違いないが、特に小説家になるとなると、その段階が明らかに他のこととは違うということに気づくことになるのであろう。
 それを考えると、
「最初から、無理だったのではないか?」
 ということで、今度は、
「小説家になった自分を、そのまわりから、いわゆる、他人事のように見る」
 ということになるのではないだろうか?
 そうなると、余計に、
「小説家に対して感じていた思いが、どんどんその道に近づいてきて、見えるようになると、自分が実際に小説家になった時、そのギャップやジレンマを感じることになる」
 ということを感じていたのかも知れない。
 だから、
「新人賞を取った」
 という時、うれしい反面、どこかに不安めいたものがあったのだと感じていたようだった。
 これも、他のことでもいえることであろうが、特に、それが、
「自分の目標として目指すものだ」
 と考えると、
「目標というものが、どれほど大変なことなのか?」
 ということを感じさせられるのであった。
 そんな中で、
「中の下」
 であったり、
「下の上」
 であったりするものがあれば、
「実際にはどちらがランクは上なのか?」
 ということを考えると、ほとんどの人は、
「中の下の方が上である」
 と答えるに違いない。
 それは当たり前のことであり、
「最初のランクが、後ろよりも優先する」
 ということだからである。
 最初の比較が、
「中と下」
 なのだから、当然のことながら、
「中の下」
 の方が上だというわけだ。
 これが、
「中の中」
 と、
「中の下」
 との比較であれば、最初のランクは同じなのだから、後者の方での比較になるので、
「中の中の方が上だ」
 ということになるのである。
 こちらの方が、比較する場合に、
「分かりやすい」
 と言ってもいいだろう。
 それを考えると、
「前よりも後ろの方の比較の方が、無意識に比較しやすい」
 と言ってもいいだろう。
 それを考えると、
「人間というのは、無意識に考える方が、結構考えやすいということになるのではないだろうか?」
 ということであった。
「次の瞬間には、無限の可能性というものが広がっている」
 ということを聞いたことはないだろうか?
 それを普通に、
「当たり前のことだ」
 と思うのか、誰もいちいちそのことについて言及しようという人はいない。
 もちろん、心理学の先生であったり、ロボット工学の先生などは、意識しないわけにはいかないのかも知れないが、一般人であれば、誰も気にすることもないといえるだろう。
 それは、
「人間の潜在意識というものが、それを考えさせる」
 ということになるからだ。
 人間にとって潜在意識というものが、どういうものであるのかということを考えると、
「普段から、意識することなく、行動ができ。その判断が正しいのか間違っていたのかということは、意識しなければ分からない」
 というものではないか。
 人によっては、
「その判断が正しかったのか間違っていたのかということが、人生において、大切なことではないか?」
 というのだろうが、果たしてそうなのだろうか?
 確かに、その判断をするのは自分かも知れないが、その自分の判断が本当に正しいのかどうか、誰が判断するというのか?
「勉強していれば分かる」
 と、大人によってはいうやつがいるが、それこそ、
「自分の考え方の押し付け」
 ではないだろうか。
「親だから、いいんだ」
 というやつもいるが、そうやって子供を押さえつけることで、子供がろくなことにならないということだってあるではないか。
 特に今の時代には、幼児虐待」
 というものがある。
 いまさら、
「親の威厳」
 というのは、
「昭和時代の古めかしい考え方であり、令和の今の時代にいえることではないだろう」
 昭和時代の勝手な押し付けによって、子供がいかに大変な思いをしてきたのかということは、いまさらながらの問題である。
考えてみれが、昭和の時代の、
「父親」
 というと、
「父親というのは、絶対的な存在であり、子供は父親のいうことを聞いて当たり前だ」
 という考えだったのだ。
 それは、子供というものが大人に対して、
「逆らえない」
 ということなのか、逆にいえば、
「それだけ父親には威厳があった」
 ということであろう。
 ただ、昭和という時代が、
「父親に対して、威厳を持たせることができた時代だった」
 ということになるのかも知れない。
 父親が威厳をいうものを持つことによって成り立つ、
「家長制度」
 というもの。
 戦後から、昭和の高度成長時代くらいまでは、確かに、
「父親の威厳」
 というものがあった。
 しかし、子供からすれば、父親の威厳という力で、操られていたといってもいいだろう。
「父親から言われたことは絶対で、逆らうことはできない」
 という思いはありながら、他の家庭と比較してみたりすると、理不尽さに気づいてくるというものであろう。
 学校では、
「差別や同和問題」
 などというものを、道徳の授業で教える。
 さらに、社会科で、
「人権問題」
「個人の自由」
 などというものを教えられると、いくら家族とはいえ、
「他人ではないか?」
 ということを思うようになると、父親に対しての思いが変わってくるというものだ。
 しかも、同じ父親でも、
「自分の父親と、友達の父親では、まったく性格もタイプも違う。だから、家庭でも、その威厳というものが違う」
 と思うようになる。
 だから、
「どうして俺だけ、こんなに父親に縛られなければいけないのだ?」
 ということを考えてしまうに違いないのだった。
 それが分かると、
「父親に対して下側寝蹴ればいけない」
 という気持ちと、
「縛られなければいけない」
 という理不尽さを考えると、
「親には逆らうものだ」
 ということを感じてしまうのであり、もっといえば、
「押さえつけようとするから、こんな風に、逆らいたくなるというものではないだろうか?」
 と考えるのであった。
 実際に、父親の権威というものは、高度成長時代くらいまでであっただろうか?
 何といっても、
「お父さんが帰ってくるまで、晩御飯はお預け」
 というような、今では信じられないような時代だった。

                 あとを引く時代

 会社においても、当時よくあったこととして、
「サービス残業」
 と言われるものがあった。
 今の時代においても、似たような、
「サービス残業」
作品名:欲による三すくみ 作家名:森本晃次