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欲による三すくみ

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 少なくとも、大日本帝国における。
「特攻隊」
「玉砕」
 などというのは、自分の意志というよりも、強制的な力というものが優先していると思えることから。
「あってはいけないこと」
 ということで、
「戦争は必要悪だ」
 といっていいのか、難しいところだ。
 ただ、
「致し方ない」
 という、土地や水によるものであればなんともいえない。
 そういう意味で、大日本帝国が、
「大東亜戦争」
 に突入したのは、
「まわりからの経済制裁をどうにかしないといけない」
 ということで、南方に進出したことから起こったことで、
「やむを得ない」
 といえるのだろうが、これも、連合国からすれば、
「譲歩案を示しているのに、日本がそれを拒否した」
 ということでの戦争突入となったので、日本とすれば、そのことを、前面に出しての、
「宣戦布告」
 ということはできないということになるだろう。
 それを思うと、
「日本における大東亜戦争の大義名分は、どうしても、大東亜共栄圏に委ねるしかないだろう」
 といえる。
 しかし、それも、十分な、
「宣戦の理由としては成り立つ」
 ということであり、
「立派な大義名分」
 であった。
 だからこそ、連合国は、
「太平洋戦争」
 という名称に変えさせたのだった。
 そんな大義名分がある中で、
「戦争というのは、そんな大義名分だけで割り切ることのできるものではない」
 ということになるだろう。
 特に今の時代から見たかつての戦争の中に、
「一つでも、仕方がない」
 といえる戦争があったのだろうか?
 と思うだろう。
 しかし、それは、
「本当の歴史というものを知らない」
 ということから始まったことではないだろうか?
「平和ボケ」
 といえば、それまでだが、確かに、かつての日本の歴史の中で、実際に、戦争がなかった期間が、こんなに長かったというのは、あまりなかったことではないだろうか?
「平安時代であったり、江戸時代の天下泰平の時代」
 と言われるそんな時代だけではなかったか?
 そんな風に感じさせるのであった。
 日本という国は、
「平和ボケ」
 だけではなく、民俗的に、本当は
「平和を望む民族だ」
 といってもいいのではないだろうか?
 そうなると、あの戦争も、逆に、
「すべてが仕方のない戦争だった」
 ともいえるかも知れない。
「0か100か?」
 という考え方が、日本人の中にあるのであれば、戦争というものは、
「きっと、そのどちらかでしかないのだろう」
 ということで、戦争とは、
「妥協のないもの」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんな戦争よりも、
「本当は必要なものなのだが、それがあるために、死んでしまう」
 ということになりかねない。
 なるものが存在しているのも事実だ。
 これは、
「偽善」
 という言葉と、実際にはいえるのかどうか難しいところである。
 人間の身体には、必要ではあるが、その効果が、実際に悪い方に働くと、死んでしまうことになりかねないというものがある。
 その場合は、その効果というものが、
「善の中にある悪だ」
 ということになるのではないだろうか?
 だから、世の中でいうところの、
「偽善」
 とは言い切れないだろうが、
「必要悪の逆」
 という意味では、その問題が絡んでくるといってもいいだろう。
 つまり、
「必要悪の反対」
 というものが、すべて、
「偽善」
 ということになるわけでもないし、ただ、
「偽善」
 というものが、
「必要悪の反対だ」
 とはいえることになるのだろう。
 ということは、
「偽善というものが、すべて必要悪の反対だ」
 とは言い切れないということであろう。
 つまり、
「偽善の中には、しょうがないと言われるようなものもあれば、悪でしかないというものもある」
 といえるのではないか?
 ということである。
 だから、
「しょうがない偽善」
 ということで、これから話すことは、あてはまるのではないだろうか。
 それが何かというと、前述の、
「アナフィラキシーショック」
 である。
 人間は、毒物を体内に入れてしまうと、それを排除しようとして、
「抗体を作る」
 という習性を持っている。
 だから、ケガをした時などに、血が出て、かさぶたができたりして、自然と、それ以上の地が出ないような仕掛けになっているわけである。
 しかも、
「自然治癒」
 という形で、人間は、自然と身体を治すという力が備わっている。 
 それが、
「抗体を作る」
 ということであり、できた抗体が、
「人間の身体を、もう一度同じことが起これば、その抗体が、自然治癒に導いてくれる」
 ということになるのだ。
 それは、風邪を引いた時なども、同じことで、特に、
「風邪を引いた時」
 などというのは、
「熱が上がるという作用があるが、それは、身体の中の抗体が毒素戦っているとからだ」
 と言われている。
 だから、熱が上がっている時というのは、親は心配して、
「解熱作業を行おう」
 と考えるが、実は反対である。
 というのは、
「熱がある時は、できるだけ身体をあっためて、身体から毒素を吐き出させる」
 ということをしなければいけない。
 せっかく、抗体が毒素と戦っているのだから、熱を下げるという行為は、
「自分の身体の抗体の能力を低下させることになる」
 ということになるのだ。
 その時は、どんなに身体が熱くなっていようとも、汗がなかなか出なかったりするであろう。
 本当は、身体から毒素を出したいのに、汗が毒素を吸収して出さなければならないのに、それができないから、抗体が一人で戦っているということになるのだ。
 だから、身体を暖めて、抗体の力になるようにして、熱が上がり切ってしまうと、今度は、汗が出てくるので、下着を着替えて、そして、今度は熱を下げる方法を取るのである。
 その証拠に、
「熱が上がっている時、患者は、ブルブル震えている」
 という状態だったのではないだろうか?
 身体が熱くてしょうがないのに、ブルブル震えているというのは、おかしなことだといえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「熱を下げる」
 ということをしてしまうと、却って、抗体の邪魔をしていることになるのである。
 それを知らないと、せっかくの抗体の意味がなくなってしまう。
 考えてみれば、病院からもらう、
「頓服」
 と言われる熱さましは、たいていの場合、
「38度以上の熱が出ないと、使わないでください」
 と言われるではないか。
 確かに、熱が低い時に、強い薬を飲んでしまうと、却って、次は利かなくなったり、強すぎて、他の内臓に影響が出てしまったりということは十分にありえることであろう。
 しかし、それだけの理由ではない。
 抗体とのバランスから、
「飲むタイミングを考える」
 ということが一番重要なことである。
 だから、病院からは、頓服として、
「2,3個」
 くらいしかもらえないのだ。
 そもそも、他の内服薬として、
「3日分」
 というのであれば、
「1日1個」
 ということで、それこそ、38度以上の熱が出た時に使用して、
作品名:欲による三すくみ 作家名:森本晃次