欲による三すくみ
そうなってしまうと、新たなターゲットを見つけようとするのだろうが、あまり大っぴらにやると、今度は自分たちの立場が危なくなる。そうなると、彼らも用心するようになり、今度は決して、
「騙しやすい」
と思えない、曖昧な連中には手を出すことはしないだろう。
そうなると、苛めに遭う子は決まっていて。苛められない子も決まってくるということになり、結果、
「虐められたことがない」
あるいは、
「騙されることはない」
ということになるのだ。
苛めと騙されるということは同じではないが、
「その両者ともに、ハッキリと別れる」
という意味では、同じようなものだといってもいいだろう。
だから、騙されたことがない人が、ある程度大人になってから初めて騙されるというようなことになると、その時の洗脳は、結構、
「尾を引く」
ということになるのではないだろうか?
騙されるということは、ある意味、騙す方も、結構しっかりと自分がだましているという感覚をもっていないとうまくいかない。
それだけ、騙す方は、
「確信犯だ」
ということになるのだろう。
つまりは、
「表向きにはいいことなのに、実際中に入ってみると、悪いことであり、表向きにはいいことだからこそ、
相手もまわりも騙されてしまう」
ということになるのだ。
世の中には、そういう、
「実際には、それがないといけないのだろうが、騙したり、あるいは、騙される人がいることで、ひょっとすると、本来はなくならなければいけない」
というようなことが存在するのではないか?
ということが考えられる。
たとえば、世の中に存在しているものにもそれはあるかも知れない。
その一つとして、頭に浮かんできたのが、
「アナフィラキシーショック」
というものであった。
これは、ハチに刺された時などに言われることであり、
「スズメバチに二度刺されると、死に至る」
と言われるものである。
ハチという昆虫は、自衛のために、尻尾のところに、毒があり、それに刺されると、毒が回るということになっているのであった。
しかも、これはスズメバチに限らず、
「ハチというのは、毒を使うと、自分はすぐに死んでしまう」
という習性を持っている。
つまり、
「自衛のために相手を刺して、それで自分がすぐに死んでしまう」
ということであって、考えてみれば、
「それのどこが、自衛なのか?」
ということになるであろう。
つまりは、
「相手を殺傷してしまう」
ということで、自分の身が守れないということであれば、何も相手を刺す必要などないということになるのだ。
これこそ、ハチにとっては、
「無用の長物なのではないか?」
ということになるのだろうが、これも一種の、
「自衛」
ということになるのではないだろうか?
というのも、ハチという昆虫が、自分というものに自衛を考えているわけではなく
「ハチという種族の繁栄」
あるいは、
「自分たちの仲間であったり、家族を守るため」
ということを、自衛と考えているのであれば、
「ハチの毒」
というのは、本当の自衛ということになるのではないかと思うのであった。
つまり、人間でいうところの例として、
「大日本帝国」
でいうところの、
「特攻隊」
であったり、宗教団体の、過激な連中が行っている、
「自爆テロ」
などがそうであろう。
しかし、人間の場合は、明らかに、
「やらせる人がいるから、する人がいる」
ということになる。
特攻隊の場合は、
「大日本帝国時代」の立憲君主ということで、日ごろから教育で、
「天皇陛下のために、死をもいとわない」
と教えられたり、戦陣訓と呼ばれるもので、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
などということで、
「捕虜になるくらいであれば、自害しなさい」
という教育を受けてきていることから、
「死」
というものに対して、
「感覚がマヒしているのではないか?」
というように今の、民主主義で、
「平和ボケ」
をしている人から見れば、そうとしか思えないことであるが、果たしてどうなのかは、自分たちがまったくそういう教育を受けていないので分かるはずもないということになるのだ。
だから、特攻隊の人は、家族に残した遺書には、
「お国のために立派に死ぬ自分をほめてあげてください」
という内容のことを描いている。
実際には。
「もっと生きていたい」
と思っているのだろうが、戦時中ということで、そんなことをいえるわけもない。
しかも、
「死というものが確定している状況」
つまりは、もし、成功しなくて、生き残ったろしても、片道の燃料しか積んでいないのだから、死は確定しているというわけである。
そんな状態で何を言おうと、事態が変わるわけではない。潔く死ぬしかない状況だったといってもいい。
また、もしそこで逃げたとしても、どこに逃げるというのか、
原隊に戻れば、死んだことになっている人間が生きているのだ。その存在を否定しなければいけない。
さらには、軍規としては
「敵前逃亡銃殺刑」
という、厳しい軍の決まりがあるではないか、どっちにしても、
「生きることが許されない」
という恐ろしい状況にいなるのであった。
だから、特攻隊というのは、その行為に関しては、
「自殺行為」
という風に見えるのだが、実際には、まわりによって死ぬことを強要されているわけで、個人の意志ではどうなるものではない。
だったら、
「天皇陛下のため」
あるいは、
「家族のため」
ということで、潔く死ぬことが、国家のため、戦争に勝つためということであれば、それに越したことはない
ということになるのであろう。
そういう意味で、
「戦争というのは、決して起こしてはいけない」
ということになるのだろう。
前章における。
「必要悪の代表として、戦争というのがあるのだ」
というのは、正論といっていいのだろうか?
それを考えると、
「じゃあ、特攻隊や、玉砕、さらには、無差別爆撃などを認めていいものなのか?」
ということになる。
ここまでくれば、
「生と死」
というものへの考え方の違いをハッキリさせる必要があるのではないか?
ということになるだろう。
これは、
「自爆テロ」
ということにも言えることである。
ただ、自爆テロなどは、大日本帝国のように、
「国家ぐるみで、国民を洗脳している」
ということと同じなのだろうか?
自爆テロを引き起こす人たちは、
「洗脳されている」
といってもいいものなのか、それとも、
「自分たちのれっきとした意志に基づくものだ」
といってもいいものだろうか?
そのあたりがよく分からない。
つまり、
「日本のように、まわりの環境がそうなってしまうので、致し方なく受け入れるという考えなのか」
それとも
「自分たちの意志によるもの」
と真剣に思っていることでなのかが難しい。
少なくとも、自爆テロは、
「信じる宗教があり、その宗教の教えで行動しているのだから、そこに個人の意思が含まれているのだとすれば、それを、果たして、洗脳だ」
といえるのだろうか?