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欲による三すくみ

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 特に教育に関することで、歴史などでも、徳川に関しての逸話として残っているものは、どんなに小さなものでも、批判するというくらいの徹底ぶりではなかったか。
 だから、
「関ヶ原の戦い」
 においても、
「西軍の光成」
 を、悪く言わなくなったり、
「大阪の陣」
 において、徳川家康を、
「切腹寸前にまで追い込んだ真田信繁を、江戸時代は、悪として描いたのだろうが、明治になると、まるで英雄であるかのようにたたえている」
 ということになったのであった。
 要するに、
「時代が変われば、考え方も、歴史解釈も、その時代の覇者によって、いかようにも変えられる」
 というものであろう。
 それは、大東亜戦争後でもあったことだった。
 特に、今度は、戦勝国から、占領されることで、今までのイデオロギーも考え方も、すべてを否定され、新たな、まったく違う体制を築こうというのだから、大変だったことだろう。
 何しろ、
「占領軍は日本の歴史を知らないのだ」
 というのは、あとから勉強することはできるが、学校で教わったというわけではないので、
「どのような教育を日本人が受けてきたのか?」
 ということは分からない。
 だから、
「日本人の考え方は、日本人に変えさせるしかない」
 ということで、国家やマスゴミに、徹底的に、民主主義というものを植え付けることになったのだろう。
 だから、前述の、
「大東亜戦争」
 という言葉も、今だに、
「太平洋戦争」
 などという中途半端な言い方でごまかしているのだ。
 そもそも、あの戦争は、中国大陸での、シナ事変から始まったことなので、少なくとも、
「アジア」
 という言葉は必要である。
 だから、
「東アジア」
 という意味での、
「大東亜」
 という言葉が一番ふさわしいのだが、これを連合国は認めるわけはないのだ。
 そもそも、東アジアは、昔の大航海時代において、列強がアジア、アフリカに進出し、植民地を作ったことで、アジア全体が欧州の、
「大きな植民地」
 になってしまったのだ。
 それを考えたうえで
「日本という国は、東アジアの植民地化した国をアングロサクソンから解放し、東アジアに日本を中心とした新秩序の建設ということでの、大東亜共栄圏を作る」
 ということが、本来の戦争目的だったわけだ。
 だから、戦争の名称を、シナ事変にさかのぼって、
「大東亜戦争にする」
 と、閣議決定したのだった。
 ただ、この名称は、連合国にとっては、
「日本の戦争目的を認め、自分たちが悪であるということを認める」
 ということになる。
 それだけは許せないということで、日本が占領下にある間だけ、名称を変えさせたのだった。
 だから、独立した後は、
「大東亜戦争」
 といってもいいはずなのに、それをいまだに、
「太平洋戦争」
 といっている。
 それこそ、
「日本は平和ボケをしたのではないだろうか?」
 といってもいいことになり、
「何が正しいのか?」
 ということになるのだろう。
 あの世界を破滅に追い込むだけの、二つの世界大戦を経ても、いまだに戦争が絶えることはない。それどころか、小競り合いのような戦争が頻発し、中には、内乱をずっとしている国だってあるわけだ。
「これのどこが必要悪なのか?」
 ということであるが、国によっては、自爆テロなどでも平気で行う、かつての大日本帝国のようなところもある。
 しかし、それはまったく違うイデオロギーなので、決して一緒にしてはいけないという考えになるであろう。
 とにかく、戦争というのは、
「宗教などのイデオロギー」
 であったり、
「生きていくために必要なもの、土地やそれに付随する水などを必要とするため」
 ということで戦争を起こすものである。
 後者であれば、
「致し方がない」
 ということで、
「必要悪」
 ということを認めることもできるかも知れないが、
「イデオロギー」
 というものを果たして、
「必要悪として認めるかどうか?」
 というのは難しいところだといえるだろう。
 それを考えると、戦争に関しては、
「グレーな部分が多い」
 といえるのではないだろうか?

                 偽善

 対して、
「偽善」
 というものは、実際には必要悪よりも、さらにひどいものだといってもいい。そもそも、善という言葉があるだけに、たちが悪いといってもいいだろう。
 偽善と呼ばれるものでよく言われるものとすれば、
「詐欺などにおいて、相手を安心させるために、行う行為が、偽善だということになるのであろう」
 つまりは、自分たちの利益のために、相手を欺いて、こちらの思い通りに操るということで、やっていることは善に見えても、そこには、一切の心が働いているわけではないので、完全に、心にもないことをしているわけなので、そこに、善と呼ばれるものはまったく存在しないということになる。
 それを考えると、人によっては、
「騙される方が悪い」
 などという人もいるかも知れないが、そんなことはない。
 相手が信じ込むほどに、マインドコントロールをできるやつがいるから、この手の詐欺はなくならないのであり、ある意味、それだけ人間は精神的に弱いといえるのか、それとも、それだけ騙される人は、人のことを信じなければいけないほどに、病んでしまっているということになるのかも知れない。
「病んでいるんだったら、人を信じないのでは?」
 という人もいるだろう。
 しかし、元来人間は、人のことを信用するものである。
「人のことを信頼できない」
 といっている人は、必ず、一度は騙されたりした経験があるから、信用できなくなったということになるのだろう。
 そうでなければ、
「人を信用するということがどういうことなのか?」
 そして、
「人に騙されるということがどういうことであり、騙されてしまうと、どういうことになってしまうのか?」
 ということが分かっているから、信じられなくなるのだ。
 人の感情が、かたくなになるというのは、必ず、いくつかの段階を踏まなければ行きつく先ではないということになるのではないだろうか。
 それを考えると、
「偽善というものは、それだけ、巧妙に人を騙す」
 ということの代表例のようなものだといえるのではないだろうか。
 確かに、
「騙される方が悪い」
 といえるほどに、外部から見ると、思う場合もあるだろう。
 警察が、絶えず注意喚起をしていたり、テレビなどで呼びかけていたりすることもあるだろうが、人から騙されたことのない人からすれば、騙されるということがどういうことなのかということが分かるはずもないというものである。
 実際に、高校を卒業するまでに、
「人に騙されたことがない」
 という人もいるだろう。
 学生の世界では、たぶん、
「騙しやすい人」
 というのは、騙そうとする人から見れば、
「分かりやすい」
 ということかも知れない。
 一人にターゲットを絞ると、その人に集中して、騙したり、あるいは、いじめに走ったりする。
 それを総称して、
「苛め」
 という言葉になるのだろう。
 だから、不登校になったり、引きこもりになってしまったりするのである。
作品名:欲による三すくみ 作家名:森本晃次