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黒薔薇研究会の真実

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 というものを題材にした作品が、ドラマ化され、放送されたのだ。
「徳川家康といえば、四天王」
 と言われるほど、家臣団の力が結束されていて、特に、その中でも、
「徳川四天王」
 と呼ばれる連中は、その群を抜いているといってもいいだろう。
「酒井忠次」
「本多忠勝」
「榊原康正」
「井伊直政」
 の四人である。
 年齢はそれぞれに離れている(ただし、本多と榊原は同い年)が、それぞれの時代に徳川家臣団を支えたといっても過言ではない。
 本来なら、そんな4人になぞらえるのであるから、
「敬意を表している」
 というべきなのだろうが、そうではないのであった。
 つまりは、徳川家康をいえると、5人ということで、部長を含めて4人で形成される。
「四天王」
 ということであれば、この、
「黒薔薇研究会」
 というところには、
「家康不在」
 ということになるのだ。
 だから、この会は、
「徳川家康不在」
 ということになるのか、それとも、
「部長である佐土原は、家臣団をまとめる力がないので、結局は他の3人と同じ立場でしかない」
 ということになるのだろう。
 だから、
「一応部長という肩書はあるが、それはあくまでも、部長という肩書があるだけのことで、そこに権力はない」
 と言ってもいいだろう。
 他のサークルにおける。
「部長という立場」
 がどれほどのものかは分からないが、佐土原が今いるところは、
「部長ということでまわりから特化しているわけではない」
 ということだ。
 そもそも、このサークルが、
「今までいたミステリーサークルになかった、特化したものを研究する」
 というところなので、
「その中でスタッフの中で階級差というものが存在すれば、そこに違和感が生まれ、サークルとしての運営が難しくなる」
 ということになるのではないだろうか。
 それを考えると、
「黒薔薇四天王」
 という言葉は、謂れある言葉だというよりも、
「的確に、その部の状況をとらえた言葉だ」
 ということで、皮肉と取った方が、悪意があるように思えるのは、実は、それを言われている、
「四天王のこの4人」
 ということではないだろうか。
 それを考えると、
「四天王というのは、それぞれに、何かに特化している必要があり、それが、サークルの威厳というものに、結びついてくる」
 といえるのではないだろうか?
 それが、そもそものコンセプトである。
「殺害方法の研究」
 というものであった。
 そもそも殺害方法の研究ということであれば、
「いずれ、研究にも限界がある」
 ということで、
「もし、どこかで限界を迎えれば、今度はまた新しいものを求めて研究すればいい」
 と、先に関しては様子を見るということになるのであった。
 しかし、その反面、
「一つのテーマが終われば、そこで、このサークルもそのタイミングで終焉させてもいいのではないか?」
 と心の底では皆感じていることだった。
 だから、
「その時はその時だ」
 と、却って潔い気持ちになっているのかも知れないと感じるのであった。
 そして、それぞれの研究は、
「必ず最後は終わりが一緒のタイミングになるとは限らない」
 ということであろう。
 むしろ、
「同じタイミングになんかなってしまうなど、考えただけでも恐ろしい」
 というものであった。
 だから、最初に研究が終われば、そこで、そのチームは、次を考えるまでは、休息状態と言ってもいい。つまりは、
「最大公約数的に、焦点は、最後に終わる研究である」
 ということになるのであった。
 それを考えると、
「競争というわけではないが、それぞれに、無意識のうちに、競争を思い描いているのではないだろうか?」
 と考えられるのであった。
 そんな中で、鹿島が研究しているのが、
「毒殺」
 ということであった。
 そもそも、このサークルのコンセプトを考えた時、
「特化」
 ということは頭に浮かんだが、しかし、
「何に対しての特化なのか?」
 ということに関しては、決まるまでに少し時間が掛かった。
 つまり、
「段階が必要だった」
 ということであるが、その特化が決まるまで、時間が掛かったように見えるが、それはあくまで、
「皆が殺害方法に関して、それぞれ違った考えに特化していた」
 ということが分からなかっただけで、
「答えはそこにあった」
 というほど、特化の内容に気が付いた時、
「灯台下暗しだ」
 と感じたのは、ただの偶然だったといってもいいのだろうか?
 実際に、それぞれ3人が、その特化について、話し合いをしている時、それぞれの発言に、
「ヒントのようなもの」
 が含まれていたのだが、それを気づく人間はいなかった。
 なぜなら、その会議が行われていたメンバーに、
「佐土原は含まれていなかったからである」
 というのも、
「佐土原は、その打ち合わせが行われている時、サークルの発足に関して、一人で奮闘していたからであった」
 ということである。
 結局、
「四天王のうちの3人」
 が話し合うわけで、それぞれに特化した意見を持っているので、
「自分の意見に特化する」
 ということになるのは当たり前のことであり、
「自分の意見を主張するあまり、誰もがその先を見ようとしても、堂々巡りを繰り返してしまう」
 ということで、まるで、
「いたちごっこのようだ」
 と言ってもいいだろう。
「いたちごっこ」
 というのは、
「一方通行の道を、果てしなく前に向かって進んでいく」
 ということではないかともいえる。
 しかし、実際には、その道は一直線ではなく、蛇行したものであることで、
「交わることのない平行線」
 というわけではない。
 蛇行しているということは一直線ではない。一直線ではないということは、平行線ではないということが、限りなくハッキリといえることではないかということになるのだ。
 それを考えると、
「平行線でなければ、ぐるっと回って、最後には戻ってくる」
 ということになる。
 しかし、地球というものは丸いということでもあるので、平行線であっても、地球を一周回ってくれば、
「そこで、もう一度同じ場所に戻ってくる」
 ということにはなるだろう。
 そうなってしまうと、
「平行線というのは、本当にありえることなのか?」
 という疑念が浮かんでくるのではないだろうか?
「それでも地球は回っている」
 と言ったガリレオが、
「本当は正しかった」
 ということになるわけなので、
「世の中、結局は何が正しいのかということは、絶対的な証明がされない限りは、都市伝説で終わってしまうということもある」
 ということになるのだろう。
 そして、その中でもっ毒殺に特化する、鹿島のグループのほとんどの人たちは、
「自分たちが一番最後に残ることだろう」
 と考えている人が多いのだ。
 いや、むしろ、
「皆が考えている」
 ということであり、逆にいえば、
「最後に残るであろうものを、特化する研究として選んだ時、毒殺というものが残ったのだ」
 ということになるのであろう。
 しかし、これは毒殺グループに限ったことではなく、
「絞殺グループ」
「刺殺グループ」
 というのも、
作品名:黒薔薇研究会の真実 作家名:森本晃次