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黒薔薇研究会の真実

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「同じ特化するもの」
 ということで、自分たちが考えていることだと言ってもいいだろう。
「毒殺グループ」
 として、そのリーダーに、四天王である鹿島を当てたのは当たり前のことで、他のグループも同じだった。
 鹿島は、
「さすが、四天王」
 と言われるだけあって、
「グループの中では、まわりからカリスマ性がある」
 と言われているのであった。
 ただ、彼ら四天王の中だけではあるが、他の人が自分たちを、
「四天王」
 と呼ぶことに、疑問を感じていたのだ。
「どうして、皆を横並びにするんだろう?」
 と、佐土原意外の3人は感じていた。
 いや、佐土原自信も、同じことを考えていて、四天王の全員だけが、
「佐土原にはカリスマ性がある」
 と思っていたのだ。
「これは、佐土原自身も感じている」
 ということであり、個々のサークルの中で、
「リーダーがカリスマ性を持っている」
 と考える中で、肝心のリーダーはそうは思っていないということになるのであった。
「だから、この3人のカリスマには、どんなにカリスマ性があっても、部長にはなれない」
 ということになるのだろう。
 つまりは、
「部長という、全体をまとめる人は、自分自身で、カリスマ性があるということを自覚していないと務まらない」
 ということになるのであった。
 それを考えると、
「カリスマ性ということを一口で口にしていいものなのだろうか?
 ということになる。
「自分に自身が持て、自覚できるカリスマ性というものは、それだけの覚悟と潔さ」
 というものが必要なのではないかということになるのだ。
 それを、このサークルの中で分かっているのは、きっと、
「佐土原一人」
 ということであろう。
 四天王の中の他の連中は、
「カリスマ性が自分にある」
 ということが分からないことで、結局はどこまで行っても、
「リーダーでしかない」
 ということになるのであろう。
 それを考えると、
「四天王」
 という表現は、
「本当はふさわしくないものなのかも知れない」
 ということになり、それを考えているのが佐土原だけなので、結局この謂れが消えることはないということになるのだろう。
 それを考えると、
「佐土原としては、このサークルの3つの特化を、黙って見ているしかない」
 と考えるのであった。
 それは、
「自分にはそれができる」
 と思っているからで、その証拠として、
「自分にそれだけのカリスマが備わっているからだ」
 と思っているのだ。
 これは、
「自分の中で、意識していることで、無意識に溢れてくるものだ」
 と言ってもいいかも知れない。
「意識しないと、無意識に溢れてこない」
 ということは、
「まず意識がそこにあって、無意識がついてくるものなのか?」
 それとも、
「無意識に溢れてくるということを、まわりから意識する」
 という順序になるのかということが、
「意外と大切なのではないか?」
 と考えるようになったのである。
 それを思えば、
「順序」
 というものと、
「無意識と意識」
 という正反対のものが、
「正対するものとしていかに影響してくるものなのか?」
 ということを感じるようになるのであった。
 特に、
「このサークル」
 というのは、
「特化する」
 ということがコンセプトなので、その特化というものがどのような発想になるかと考えた時、
「その答えは必ず見つかる」
 ということを、
「どこまで信じることができるか?」
 ということである。
 もっといえば、
「その信じることが潔さであり、覚悟である」
 と考えると、
「それこそがカリスマというものである」
 ということは分かっているはずだ。
 しかし、それをカリスマ性だと思えないのは、
「同じカリスマ性であっても、佐土原が持っているものとは違う」
 ということから、感じることなのであろう。
 だから、
「カリスマ性を感じない」
 としても、それは無理のないことであり、
「カリスマ性にも種類がある」
 といえるのではないだろうか。
 ただ、その種類というものは、
「段階があるもの」
 ということに気づけば、
「自分たちにも、部長になれるくらいのカリスマ性がある」
 と気づくだろう。
 しかし、気づかないことが、
「黒薔薇研究会」
 というものを存続させるということになるだろうと考えるのであった。
 
                 毒殺について

 毒殺というものを研究している、そのリーダーは前述のとおり、鹿島であった。
 鹿島は医学部に所属していて、そもそも、殺害などということには、嫌悪感を感じていたのだった。
「人を呪わば穴二つ」
 という言葉にあるように、
「人に恨みを感じ、それを行動に移すと、自分もいずれ、その報いを受ける」
 という考え方にある。
 一種の、
「報復」
 とでもいうものだが、鹿島は、その考え方にかつては近いものがあった。
 冷静に考えると、
「たとえ誰かを殺したいと思って人を殺すとしよう。その殺した人の恨みとして、自分の近しい人が、その人間に理不尽に殺されたり、何かの危害を受けて、そのために自殺を試みるなどということがあったりして、
「本当に死んでしまったり」
 であったり、
「死なないまでも、植物人間化してしまったり」
 などという悲惨な状態になれば、恨みは海よりも深いと言ってもいいかも知れない。
 それを考えると、
「殺す」
 ということが、現実味を帯びてくることになるだろう。
 それも、
「無理もないことだ」
 とは思うのだ。
 しかし、もし実際にそれを行ってしまうと、今度は、相手にも家族がいるわけで、その人が殺されて、
「悲しむ人は、一人くらいはいるだろう」
 と考えられる。
 だから、
「殺された人のまわりに、自分と同じ立場の人」
 というのはいるわけで、
「きっと自分のことを恨むに違いない」
 ということになるのだ。
 そうなると、今度は自分が殺される可能性が出てくる。
 実際に殺されてしまうと、また自分が死んでしまったことで悲しむ人がいて、今度は犯人を許せないと思うと、復讐を企てることになるかも知れない。
 そうなってしまうと、もう、
「負の連鎖」
 というものが繋がっていくことになる。
 これが、エスカレートしていき、まわりを巻き込んでいくと、どんどん、関係のない人までも巻き込んでしまうことになりかねない。
 特に、
「暴力団抗争」
 などというと、それらの危険性は大きいだろう。
 特に、ライフルや、拳銃などを使っての殺害であれば、
「間違って一般人を殺害する」
 という可能性もあるというものだ。
「だから、拳銃などを使っての殺害であれば、他人を巻き込む危険性がある」
 ということになる。
 また、これは、
「殺害方法」
 というものではないが、
「人が死ぬ」
 ということで、少し広義の意味で考えた場合ということになるが、
「電車に飛び込む」
 などという方法によっての、
「飛び込み自殺」
 というのは、
「明らかに人を巻き込む」
 ということになる。
 何といっても、
「列車の運行を妨げる」
 ということで、多くの人が被害を被ることになる。
作品名:黒薔薇研究会の真実 作家名:森本晃次