黒薔薇研究会の真実
と思われるようなこともあったことだろう。
「武士道に背くこと」
というのが法度であるというのは、それは当然のことであろう。
しかし、中には、
「脱退」
というものまでが、法度に背く行為だということにされていたのだ。
「それはあんまりだ」
ということになるのだろうが、それはあくまでも、今の世の中である、
「自由な世界」
というものから考えたものであり、昔の、封建制度や、武士道というものを基本とした考え方であれば、それも、大きな法度の一つと言ってもいいだろう。
なぜなら、当時の日本というと、
「開国したばかりで、世の中が大混乱していた。幕府の力が致命的に衰えてきたことから、世の中は騒乱の時代」
ということであった。
そんな中で、京都の治安というと、乱れに乱れていた。
「暗殺や、暗躍」
などというものが渦巻いていて、
「いつどこで誰が殺されるか分からない」
という時代であり、
「殺害されることも、日常茶飯事だった」
ということであった。
そんな時代に、
「京の治安を守る」
ということで、いくつかの、
「浪士組」
のようなものが作られ、新選組も、まだその前身である、
「壬生浪士組」
という名前だった頃、そんな彼らという一つの組の中でも、一枚岩というわけではなく、それこそ、
「烏合の衆」
だったということであろう。
そもそも、彼らは、江戸で、
「将軍を守って将軍の京での命を守る」
ということが主要な役目だったのだが、それを計画した連中が、実は彼らを欺いて、
「将軍を守る」
というのは表向きであり、京に到着早々、彼ら浪士組は、
「天皇の配下」
ということにされてしまったことで、天皇に服従しなければいけなくなってしまった。
ということであった。
しかし、それをよしとしない連中が京都に残り、そこで、
「壬生浪士組」
というものを結成し、彼らが、
「会津藩ご用達」
ということで、京都での立場を保つことができるようになったのだが、それでも、
「即席でできた組」
でしかなかったということである。
そういう意味で、新選組は、
「自分たちの中での仲間割れを防ぐ」
ということもあってか、副長である、
「土方歳三」
が、
「局中法度」
というものを作ったのである。
そんな新選組のやり方は、少し強引で、
「血も涙もない」
というところがあったのかも知れないが、そういう、
「幕末の動乱」
という時代を、浪士組として生き抜くためには、それくらいの結束が必要だったということになるのである。
新選組というと、
「局中法度」
だけではなく、そもそも、彼らは、
「武士の出」
ということではなく、武士を目指した、江戸にあった、
「試衛館」
という剣術道場に所属していた連中だったということである。
武士に取り立ててもらうこともできない世の中で、
「浪士組」
ということで、
「将軍を助けて京に向かう」
という、
「お勤めができる」
ということは、名誉だったことであろう。
しかも、短い間ではあるが、京の街で、
「新選組あり」
と言われるようになり、
「鳥羽伏見の戦い」
から始まる。
「戊辰戦争」
というものを、徳川幕府の思惑とは別に、自分たちの武士道を全うするということで、新政府軍に、
「敢然と立ち向かう」
というそんな姿が、日本人の心を打ったのだ。
新選組という隊士たちは、
「剣術道場」
においては、かなりのつわものだった。
ということで、武士というだけの名ばかりの連中に比べれば、かなり強かったことであろう。
そもそも、武士とは言っても、幕末から260年前までの、
「戦乱の世」
から、
「元和偃武」
を経ての、
「戦のない時代」
つまりは、
「天下泰平」
という世の中を、言ってみれば、
「平和ボケ」
という時代において、武士は、弱体化していることであろう。
だから、倒幕においても、幕府軍は、ことごとく、新政府軍に負けていたのだ。
新政府軍よりも、数が多かった幕府軍でも、その士気において、まったく歯が立たないと言われることで、幕府軍は一気に総崩れにんあっていった。
そんな中で、幕府軍が最後まで戦えたのは、
「新選組の残党がいたから」
と言ってもいいかも知れない。
その代表例が、
「函館戦争」
ではなかったか。
「榎本武明を中心に、函館に国を作る」
という考え方の下、
「土方歳三」
「大鳥圭介」
などの幕府軍の猛者が、最後まで戦ったのである。
だから、新選組の個性豊かな隊士たちの中でも、
「土方歳三」
という男がどれほどの人気かということが分かるというものであろう。
そんな新選組を、
「愛してやまない」
という連中の中でも、少し異端児的な連中が集まっての、カルトサークルを作るのだから、それが、
「どのような団体であったのか?」
ということも分かるというものである。
本当に、最初に集まって4人というのは、
「紛れもないサイコパスだ」
ということであった。
「殺害」
あるいは、
「拷問」
ということを、感情論ではなく、その方法ということで特化したような研究から、初めていったのである。
「この世界に、女性はいらない」
というのは、
「今の世の中では、昔と違い、女性を排除するなどというのは、いけないことだ」
ということになるということである。
それは、
「女性差別」
ということに繋がり、
「男女雇用機会均等法」
と呼ばれるものに、違反する。
という発想に繋がっていくのだ。
サークルへの加入というのも、幅広く見るとすれば、
「雇用」
という発想になるからではないだろうか?
それを考えると、男性だけの団体という、
「黒薔薇」
という発想は、
「武士道」
であったり、戦争中においても、
「女性は銃後の守り」
という発想が、
「戦国時代からあったから」
と考えられるからではないだろうか?
戦国時代というのは、確かに、
「群雄割拠」
という時代であり、
「男の戦場」
と言ってもよかった。
ただ、中には、
「男勝りの姫」
というものがいたり、女性の中には、
「城主であった」
という人もいる。
基本的には、女性を家を守るものということで、差別的発想からではなかったのではないか?」
と考えると、
「別に女性を迫害している」
ということではないと考えられる。
だから、戦場に女性を連れていくこともなく、戦場では男ばかりだということで。自然と、
「衆道」
あるいは、
「男色」
と呼ばれる、
「男同士で愛し合う」
ということが存在したのだろう。
しかし、今も昔も、
「正室というもののほかに、側室がいた」
というのも事実であり、しかしこれは、
「子孫繁栄」
ということでの、
「家の存続のため」
ということになるのであろう。
「男はどんなに頑張っても、子供を産むことができない」
というわけなので、
「側室というものの存在」
により、
「一夫多妻制」
というものが存在したのも、当たり前のことだといえるに違いない。
今の時代は、逆に、そこまで、
「家を残す」