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黒薔薇研究会の真実

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 大切な家族が、いくら自殺とはいえ、死んでしまった上に、さらに賠償金を課せられるのだから、これほど、理不尽なことはないというものだ。
 この、
「血も涙もない」
 という処遇は、
「借金取り」
 よりもひどいもので、
「情け容赦もない」
 ということになるのであった。
 それを考えると、
「残された家族」
 という意味で、そこからもっと悲惨なことになりかねないといえる。
 医療ドラマにおいて、
「死ということと隣り合わせ」
 ということでテーマになることとして、
「安楽死」
 あるいは、
「尊厳死」
 といわれることがかかわってくると、かなりシビアな問題になるというものだ。
 というのは、
「今の日本では、尊厳死というものは認められていない」
 ということである。
 この場合の尊厳死という問題は、
「家族が交通事故などにあって、緊急搬送されて、手術をして命は助かったのだが、その結果、植物人間になってしまった」
 という場合である。
「生きているのか死んでいるのか」
 という状態で、完全に死んだわけではないということなので、生きている以上、
「死なせないようにしないといけない」
 ということになる。
 つまりは、
「生命維持装置というものを使って、生き続けさせなければいけない」
 ということになる。
 その時に、多額の費用が必要になるということであるが、
 それを賄うのは、国でもなければ、病院でもない。家族に課せられるということになる。
 ひょっとすると、国や病院も、一部に負担があるのかも知れないが、家族のその重圧はひどいものだ。
 何といっても、
「ほぼ、生き返る保証はない」
 と医者からは言われているのに、
「いつまで、この状態でいなければいけないのか分からない」
 人間の寿命がいつ尽きるのか分からないというのと同じで、
「ずっとこのまま生き続けなければいけない」
 ということになるのであれば、家族の負担はひどいもので、
「人生が完全に崩壊した」
 と言ってもいいだろう。
 本人の命も大切であるが、残された家族の人生は、棒に振っても仕方がないということになるのであろうか?
 医者は、もちろん、そんな安楽死に手を貸せば、
「殺人罪に問われることもある」
 というのも普通にあるのだ。
 医者としても、
「助けられない命があり、目の前で人が死んでいく」
 というのを目の当たりにするよりも、
「尊厳死」
 というものを、できない自分がどれほど辛いかということを考えさせられるというものではないだろうか。
 だから、中には、
「まわりから何と言われようと、医者の免許をはく奪されて、世間から抹殺されようとも、勧善懲悪の精神から、尊厳死に手を染める」
 という人もいるかも知れない。
 しかし、
「誰がその医者を糾弾できるというものか」
 それこそ、
「人類の生きるというテーマ」
 になるのではないだろうか?
「毒殺が殺害方法のテーマ」
 として考える時、前述のような、
「人に迷惑を掛けない死に方」
 ということを考えると、
「毒殺というのは、その限りにあらずだ」
 ということになるのではないだろうか?
 さらにもう一つ考えられるということで、
「これほど、割に合わなくて、足が付きやすく、そういう意味で、難しい犯罪だ」
 ということになるのではないだろうか?
 というのは、まず、
「割に合わない」
 ということは、
「人を巻き込む可能性がある」
 ということで、自分の本意ではないことを引き起こす可能性があるということになるのではないだろうか?
 そうなると、余計なストレスを抱えることになり、必要以上に精神を消耗してしまうことになるであろう。
 それを考えると、
「趣旨に合わない」
 ということになるのは、
「人を呪わば穴二つ」
 ということになってくるのであろう。
 鹿島は、
「だったら、そんなわりに合わない毒殺というものを、いかにすれば、割に合わなくすればいいのか?」
 ということを考えるようになった。
 それを考えた時、わりに合う合わないというよりも、結果として、
「損をしない」
 ということになるのであれば、
「マイナスとマイナスから、プラスになる」
 という考え方になるのではないか?
 と思うのだった。
 そこで、考えるのが、
「完全犯罪」
 というものであった。
 わりに合わなかったり、危険と隣り合わせだったりしてでも、この方法を選ぶとすれば、、
「これ以外に方法がない」
 ということであり、他に思いつかないなどということ以外から考えるとすれば、
「完全犯罪」
 というものの可能性に賭けているからだと考えられるのではないだろうか?
 つまりは、
「完全犯罪というものへの代償として、危険と隣り合わせのことにも挑戦しないといけない」
 という考えだとするならば、その考えもあり得るといえるのではないだろうか?
 だったら、
「同じような殺害方法があるのだろうか?」
 と考えた時、
「殺害方法ではないが、殺人の手段、トリックとして考えられることであれば、同じ趣旨として考えられないこともない」
 ということで、思い浮かぶことだってあるのだ。
 それが何かというと、
「実際の殺人事件ではありえないが、探偵小説などであれば、レアな例かも知れないが、ありえることだ」
 というものがある。
 それがどういう殺人なのかというと、いわゆる、
「交換殺人」
 というものであった。
 交換殺人というのは、読んで字のごとく、
「誰か殺害したい人がいて、殺害したとしても、自分が絶対に捕まることがない」
 というべき、完全犯罪を考える時に思い浮かぶものであった。 
 確かに完全犯罪というのは、
「自分には動機もあり、殺すチャンスもあった」
 として、警察に絶対に捕まらないようにするには、
「鉄壁のアリバイ」
 というものを作るというのが、
「これこそ、完全犯罪」
 というものである。
「人を殺しておいて、自分に鉄壁のアリバイを作る」
 というのは、普通であれば無理なことだと言ってもいいだろう。
 しかし、
「無理なことを完全なことに仕立てるには、見えないものを見えるというようにするだけではなく、見えるものを見えなくする」
 というような、逆の発想というものも必要と言ってもいいのではないだろうか?
 そこで考えられることとすれば、
「自分が殺害して、鉄壁のアリバイを作る」
 ということが鵜不可能であり、
「鉄壁なアリバイ」
 というものも、
「自分が殺しているのであれば、それも不可能だ」
 と考えるのであれば、
「殺す人間が自分でなければいい」
 ということになるだろう。
「そんなことできるはずがないじゃないか?」
 と思うのは、
「そんなに簡単に自分のいうことを聞く人がいるわけはない」
 という思いと。
「もしいたとしても、それは、自分が脅迫をしたり、相手の弱みを握ってでもいない限りは難しい。
 それを考えると、
「待てよ。だったら、自分と同じような立場の人がいるとして、その人が自分のために殺害してくれるのであれば、自分もその人のために殺害するというくらいの覚悟があればできるのではないか?」
 ということであった。
作品名:黒薔薇研究会の真実 作家名:森本晃次