無限の数学
まい進するといっても、必死になっているというわけではなく、本人の意識としては、
「人生を必死に生きるということをやめよう」
という意味で、少し自分でも、
「矛盾しているのではないか?」
ということを考えているということであった。
そもそも、
「矛盾というのがどういうことなのか?」
ということを考えた時、一つ言えることとして、
「繰り返しの人生を、限りなくゼロに近い無限に近づける」
ということを考えた時である。
「繰り返しの人生」
というのは、前述にもあるように、
「タマゴが先かニワトリが先か」
ということで、あくまでも、
「循環しているからこそ、浮かんでくる疑問だ」
ということであった。
ただ、無限というものを、
「限りなくゼロに近い」
という発想に結び付けた時というのは、
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョーシカ人形」
というように、
「両端に鏡を置き、その中央に自分がいる場合。片方の鏡に、自分と反対の鏡が写り、さらに、その映っている鏡には、反対の自分と鏡が写り……」
というような、
「無限に続いているように見える現象」
ということであり、実際には、どんどん小さくなっていくのだが、
「その小さくなっていくものが、ゼロになるということはない」
ということであった。
それも、
「数学式」
というものが証明していて、
「整数を2で割り続ければ、ゼロになることも、マイナスになることもなく、限りなくゼロに近いものにしかならない」
ということであった。
そしてそのマイナスというものは、
「ゼロにならない以上、どんどん小さくなるだけで、割り算が終わることはない」
それが、
「限りなくゼロに近い」
という発想が、
「無限というものに繋がる」
ということになるのだった。
普通、
「無限」
というものを、
「いかに証明できるか?」
と考えると、すぐにはピンとこないが、この、
「限りなくゼロに近い」
という発想をすることで、
「無限というものを証明することができる」
といってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「無限とゼロというものの関係性は密接なものだ」
といえるのではないだろうか?
実際に、
「自分の生きがいを求める生き方」
というのは、
「仕事など、食っていければいい」
というくらいで、家族にしても、
「下手にいれば、面倒くさいだけだ」
という感覚になるという経験をした人が感じるということであった。
というのは、
「もちろん、大前提として、その生きがいというものをしっかりと見つける必要がある」
ということに他ならないだろう。
そして、
「仕事というものが、本当に楽しいもので、その楽しさと、その裏で、理不尽な目に遭い、せっかくの楽しい仕事を、会社であったり、そのまわりの社会というものから、裏切られるというような経験をした」
ということも、一つの大前提ということになるだろう。
そして、家族というのも同じことで、
「最初は、幸せな家庭を築きたい」
と思い、家族と仲良くしてきたり、その中で、社会適用能力をつけようとしてきた人だったりしても、その思いが思ったようにいかなかったということで、
「気が付けば、自分は一人ぼっちになっていた」
と思っている人が、この考えの大前提となるだろう。
中には、
「そんなのお前の勝手な思い込みであり、何を甘いことを言っているんだ」
というようなことをいう輩もいるだろう。
そんなやつに限って、常識的なことを当たり前のようにいうだけのやつである。そんなやつこそ、
「社会常識」
「一般社会人」
などという、
「誰もが普通にいう言葉を口にする」
というそんなやつである。
苦しんでいる人間に、そんなことを言ったとしても、何が通用するというのだろうか。
というのも、
「苦しんでいる人間から見れば、当たり前のことを当たり前のように言って説教するやつというのは、自分の勝手な理屈に胡坐を掻いて、それによって、相手に対し、マウントを取ることで、その優位性を保とうという人間である」
ということである。
それは、元々、その人に対して、優位性を持っている人。
つまりは、
「親であったり、先生」
という、その立場から、その人にとって、最初から優位な立場にいる人のことである。
だから、相手は決して引き下がらないし、言われる方も、その優位性を分かっていることで、
「逆らうことができない」
という昔から、つまりは、
「生まれた時から」
という絶対的な立場に苦しめられるということになる。
これは、子供時代からもそうだし、大人になっても、
「大人からの呪縛から逃れられない」
という人もいるかも知れない。
精神疾患を持っていて、一人では生きられないという人もそうであろうし、そういう状況になったのも、
「ひょっとしたら、まわりの大人の影響かも知れない」
と、他人が見ると、
「それもありえる」
ということを、その親子関係のいびつさゆえに、
「分かっていないのは、当事者だけ」
ということになるだろう。
いくら親子の間とはいえ、それは、
「個人の尊厳」
ということであり、犯すことはできず、
「パワハラ」
ということになるであろう。
昭和の頃であれば、
「未成年などに対しては、親権者ということで、親の立場は絶対だ」
といってもよかったであろう。
しかし、平成の後半くらいからは、
「子供に対しての、親の虐待」
あるいは、
「子供が親に対しての虐待」
というのが問題になっている。
子供に対して、
「しつけ」
と称し、想像を絶するような苛めが行われていたりするという。
「各自治体や学校、そして、養護施設などが連携を取って、事に当たらなければいけない。そうしないと、手遅れになってしまう」
ということであった。
「一時を争う」
という場合もあり、結局、手配が遅れて、子供が被害に遭ったり、
「何とか、障害や致死には至らなかった場合」
であったとしても、子供が、結局は、
「養護施設に預けられる」
ということになり、
結果として、
「子供の中に、トラウマが残ることになり、最終的に、引き籠ったり、将来において、精神疾患が残ってしまったりする」
ということになるだろう。
そうなると、学校でも、まともに人とコミュニケーションが取れなくなったり、悪い連中の仲間になってしまったりと、結果、
「警察のお世話に何度もなる」
ということになるだろう。
そこまで行かなくとも、表向きには普通の少年なのだが、時々、おかしな行動や、言動をすることにより、結果、
「社会適用ができない」
ということになり、
「就職ができない」
あるいは、
「働き始めても、長くは続かない」
ということになる。
まわりは、本人の中にある傷というものが見えないから、半分は、
「偏見のまなざし」
というものを浴びせることで、余計に、その人は卑屈になっていくのだ。
まわりが
「普通の人間」