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無限の数学

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「無限の発想というのは、実はまやかしのようなものであり、範囲が広ければ広いほど、その無限という意識が邪魔をして、決めきれることができなくなる」
 ということになるのだ。
 無限の可能性があったとしても、それを、すべて発想するのではなく。
「この場合は、このパターンの発想」
 ということで、切り分けることで、
「選択を間違えないようにする」
 ということになるのであるが、
「元々無限という発想がある場合、その問題を、パターン化し、選択しやすくする」
 という発想は、
「ロボット工学における。フレーム問題」
 ということで問題になった。
 というのは、
「ロボットに人工知能を入れた場合、ロボットが自分で、考えて行動する」
 ということになると、目の前、つまり次の瞬間だけでも、そこには、
「無限の可能性が広がっている」
 ということで、
「どう行動していいのか分からなくなる」
 ということなので、その発想を、パターン化するということであった。
 しかし、この、
「パターン化」
 というのは、一種の、
「フレームの中に押し込める」
 ということであり、それぞれのパターンに分けようとしても、元々の発想が、
「無限」
 ということなのである。
 つまり、無限というものは、
「何で割ったとしても、数学的には、答えは無限というものにしかならない」
 ということであり、
「分子が無限である以上、どんなに分割したとしても、答えは無限でしかない」
 ということで、
「フレーム問題」
 というのは、最初から瓦解した発想だといってもいいのではないだろうか?
 それを考えると、一つ疑問に思うことがあるのだが、
「人間というのは、次の瞬間に起こりえるすべての可能性を意識することもなく、次の瞬間の行動を無意識に判断していて。疑うことなく行動する」
 というのだ。
 もちろん、その行動が、
「すべてにおいて間違いない」
 というわけではないが、それよりも、
「無意識に行動することに、何ら疑問を人間は感じない」
 ということになる。
 しかも、その結果を、
「最初から考えなかったからだ」
 と思ったとしても、それは、
「フレーム問題」
 というものに対しての疑問ではなく、
「自分の考えが甘かった」
 というところに来るのだ。
 それを、
「反省」
 といい、
「後悔とは違う」
 ということになる。
 だから、
「反省はするが、後悔はしたくない」
 という言い方をする人がいるが、皆、
「その通りだ」
 と考えるのであった。
 そう考えると、
「人間が、フレーム問題を意識することもなく、無意識の中に、自分でフレームを作りあげ、その中で判断をこれも無意識にできる」
 ということは、
「反省をすることのできる唯一の動物」
 ということになるからであろう。
 しかも、それを
「意識してする」
 というわけではなく。
「無意識にできている」
 ということが、人間を。
「無意識のうちに、フレームに当てはめることができる動物」
 ということなのではないかと考えるのだ。
 だが、その人間が、
「いざ、ロボットの人工知能にその考え方を組み込もうとすると、できない」
 ということになるのは、
「そもそも、人間は、無意識にフレーム問題というものを解決できている」
 ということだからであろう。
 それだけ、人間にとってのフレーム問題というのは、
「曖昧な発想だ」
 ということになるのだろう。
 つまり、
「曖昧な発想」
 というのは、前述のように、
「大きく見せる」
 という効果がある。
 そして、その効果が3つあるということで、
「3つの関係というものが、それぞれに影響を与えることで、それぞれの発想を育むことになる」
 という発想があるのであった、
 ある人が、40歳を超えたあたりから、
「自分の人生に迷うことはない」
 と思うようになっていた。
 これは、
「40歳というのが、不惑と言われ、惑うことはない」
 という発想と似ているかも知れない。
 ただ、
「惑う」
 と
「迷う」
 というのが、同じものなのかどうかということにもつながってくるのだともいえることで、まず、
「惑う」
「戸惑う」
 というのは、
「予想外の出来事にどのように対応すればいいかわからずに迷う様子」
 ということをいうようで、迷うというのは、
「進むべき道や方向が分からない」
 ということで、言葉にしてみても、
「結局、どう違っているのか分からない」
 ともいえ、それこそ、
「その違いというのが、曖昧だ」
 といってもいいのかも知れない。
 もちろん、戸惑うということをしなくなるのが、40代からというのは、あくまでも、イメージのようなものであって、個人差を考えれば、
「もっと若かったり、年を取ってから気づく人もいる」
 ということで、さらに、人によっては、
「一生、戸惑い続ける人もいる」
 といってもいいだろう。
 むしろ、
「戸惑い続ける人の方が多い」
 といってもいいかも知れない。
 確かに、戸惑っていることで、先を見つめるわけなので、
「戸惑わなくなったからといって、その人が悟りを開いた」
 ということでもなければ、
「戸惑わないから、その先、慌てることがまったくなくなる」
 というわけでもない。
 それを思うと、
「戸惑うというのも、先に進むために段階というものであり、一種の必要悪なのではないか?」
 といえるのではないかと考えるのだ。
 ただ、
「迷う」
 というのは、もっと広範囲の意味で、余計に、
「曖昧さが強い」
 といってもいいのではないだろうか?
 というのも、
「その時々の事件や事故のような、突発的な出来事が起こった時に、どうすればいいか?」
 という、まるで、
「一極集中」
 の場合に考えて分からない場合というのが、
「戸惑い」
 というもので、
「戸惑ったことで、先が見える」
 という、その先が、いきなり、
「見えるか見えないか」
 という道を先に見つけようとする時、その道が見えないことで、迷うというのであれば、
「戸惑う」
 ということと、
「迷う」
 ということは、
「似て非なるものだ」
 ということになるのではないだろうか?
 というのは、
「結局は、その目的地になるものは、先に見えるものだ」
 ということは共通しているのだが、そのやり方が違うのである。
 もっといえば、
「順番が違う」
 といっていいのか、言い方を変えれば、
「タマゴが先かニワトリが先か?」
 という発想に似ているのかも知れない。
 最初の初動というものが違うことであっても、目指すものは同じ、方向性が最初から違っているということであれば、それを、
「迷っている」
 というのであり、
「同じ方向性だが、その時々で発生する諸問題に対しての対応が違っている」
 というのが、
「戸惑い」
 ということになるのであろう。
 そんな人が、40歳を超えた頃に、
「一念発起」
 と言えば大げさだが、自分の生き方というものを考えるようになったのであるが、それが、
「生きがいというものを見つけて、それにまい進する」
 という考え方であった。
作品名:無限の数学 作家名:森本晃次