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無限の数学

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 といえるのだった。
 ただし、これら三つを並べた時、それぞれに、似た距離であることを感じる。
「ほぼ正三角形に近いものだ」
 ということであるのだが、だからといって。
「三つ巴」
 というような関係でもないのだ。
 そのわりに、それぞれに共通点はなく、力の均衡は保てているのに、三つ巴ではないということであった。
 それはやはり、
「閉所と暗所が近いところにあり、そこから少し距離を置いたところに、高所が存在している」
 ということであった。
 正三角形に見えているが、その均衡は明らかに違う。そこで考えられるのが、
「それぞれに抑止力を保つために作られた、三すくみという関係」
 というものを思い出した。
 三すくみというのは、それぞれ、片方とだけ、
「有利、不利」
 というそれぞれの関係が、
「まるで、たすきに掛かっている」
 という関係から、
「先に手を出すと、絶対に生き残れない」
 という法則が成り立つことで、それぞれが、手を出すことができないという、
「抑止力」
 という関係になるということで、それぞれの頂点は、歪な形をしているが、その、
「抑止力」
 という力は、絶対的なものなのだ。
 ということになるのであった。
 それを考えると、
「暗所」
「閉所」
「高所」
 のそれぞれの力関係は、
「何を持って証明されるのだろうか?」
 ということになるのであった。
 これら、恐怖症というものが、
「三すくみ」
 というものを形成しているということであるならば、その根底にあるものが、ある意味においての、
「抑止力」
 というものになるということであった。

                 究極の選択

「人間というものは、人生を長く過ごしていると、その道は、どんどん狭まってくるのではないか」
 と考えられるようになってきた。
 若いうち、あるいは、子供の頃に見ていた夢というのは、皆それぞれにあって、ある意味、
「無限の可能性」
 ということが考えられる。
 しかし、その可能性というのは、子供の発想で考えるならば、普通であれば、
「子供の世界」
 という狭い範囲の世界でしか考えられないはずなので、その狭い世界はいくら、
「無限」
 とは言いながらも、
「限界というのは、おのずとしてある」
 といってもいいだろう。
 だから、逆に、
「子供の発想は無限なのであって、大人から見れば、うらやましくもあり、子供の頃にもっと広く考えられなかったかということを感じたということを、忘れてしまっているのではないだろうか?」
 と思うのであろう。
 そういう意味で、

「大人になると、子供の頃に感じたことを忘れてしまうのではないか?」
 と感じるのだろうが、それは、
「大人になるにつれて、視界は増えてくるが、今度は、実際に見える範囲が狭くなる」
 ということで、結局、
「子供の頃の発想と、大人になり、若い頃の発想は、全体的に見れば、同じことではないだろうか?」
 ということである。
 それをグラフにすると、
「視界というものは、右肩上がりになってくるが、逆に、見える範囲というものが、右肩下がりになっている」
 ということで、いずれはどこかで、交わることになり、その交わった先から向こうは、重なりあったまま、交差することで、まるで、
「X印」
 のようになるのではないだろうか?
 それが、
「精神的な老化」
 というものに繋がるのではないかと感じるのであった。
「肉体的な老化」
 というのは、もちろん、個人差はあるが、一般的には、
「25歳くらいを境に、30歳前後くらいまでから始まる」
 というように言われている。
 実際には、40歳くらいが、人生の分岐点のように言われることから、
「肉体的な老化とは、かなり離れているということで、他に、精神的な分岐点というものも、どこかに存在しているのではないか?」
 ということを考えると、その、
「精神的な分岐点」
 というのは、
「40歳前後くらいではないか?」
 と考えられるのであった。
 ただ、もう一つの考え方として、
「前述のグラフにおいて、その分岐点というものが存在し、その分岐点というものが、20歳すぎくらいにある」
 ということではないかと考えていた。
 つまり、
「人生の分岐点」
 ということで、
「肉体的な老化」
 であり、
「精神的な分岐点」
 であり、
「グラフによる、見えている視線という考え方の、大人になった時点」
 という3つが存在しているのではないか?
 ということであった。
 そういえば、保険の外交員が持ってきていた資料の中に、
「バイオリズム」
 というものがあった。
 占いとは少し違っているが、人間の生活リズムに影響を与えるものとして、まるで、
「心電図のようなグラフ」
 が、一人の人間の中に、3つの線を描いている。
 ということで、その3つというのが、
「身体」
「感情」
「知性」
 というものであり、その3つがいかにバランスが取れるかというのが問題なのだというのであった。
 波型をしたグラフには、それぞれに、
「高長期と、低長期」
 というものがあり、それぞれの切り替わりのあたりに、注意が必要だということになるのであった。
 それぞれ3つのリズムが、周期が違ったいるので、それを人間の、定期的なリズムということで理解していれば、その先の精神状態を把握することができ、
「前もって、準備ができるのではないか?」
 ということになるであろう。
 それを考えると、
「バイオリズムの3本の線は、どこかで交わることにはなるが、どこか平行線というような発想になるのではないか?」
 という見方もできるのではないかと考えられるのである。
 それを考えると、
「人間の見え方」
 という発想は、
「まったく別のものではないか?」
 とも考えられる。
 しかし、人生において、いろいろな発想の中には、
「3つの発想」
 というものが多い気がした。
 前述の、
「恐怖症」
 というものにしても、
「バイオリズムのグラフの波線」
 というものも、それぞれに、
「3つ」
 ということではないだろうか?
 だとすると、この、
「人間の見え方」
 という発想も、
「見えていないだけで、もう一つ何かの線が絡んでいるのではないだろうか?」
 と考えられるのであった。
 ただ、この発想は、あまりにも奇抜なものであり、
「見える見えないというだけでは、理解できるものではない」
 ということになるのだ。
 実際に見えているものというのは、
「子供の頃の夢」
 というように、
「夢の中というのは、なんでもできるという思いがあることで、リアルな発想というものが、次第に曖昧になることで、ぼやけて見えることが、膨れ上がる発想を大きくさせているように思う」
 というものであった。
 しかし、だんだんと大人になってくるにつれて、
「見える範囲が広がっていくことで、その焦点を確定させないといけない」
 という思いが、無意識に存在していることで、次第に、狭まってくる焦点が、間違っていないという発想になるのだ。
 というのは、
作品名:無限の数学 作家名:森本晃次